◆「ずっと南の/小さな島は/何故か凍えて/私を創り//無垢な白目に/まばゆい月を/焼けた太陽を/全てを与え/注ぎ込んで/歩かせて//その目をもう/つぶしてしまった」(Cocco「瑠璃と花と」『サングローズ』ビクター,2001)。一体何があったというのか。この絶望は。いや多分何もないのかもしれんが。
◆親戚を集めての食事会。群馬、やはり暑い。母親は再婚して父の建てた新居に移って、妹たちはいままで母と住んでいた家にいる。おいらは横浜で一人暮しというわけで、家族が三分化したことになる。おもしろい。
◆食事会が終わって、母と新しい父との新居から帰るとき、母親と別れの挨拶をして、なんだかちょっとちょっと複雑な気分。母親というのはいつも家にいるもんだと思っていたが、その母親の住む家と自分の住む家が違う。これって、嫁に行った娘が、実家へ遊びにいって、帰るときと同じような感じだろうか。でもうちの場合、子供ではなく母親が外へ出ていったわけだ。子供にとって母親のいる場所というのが、帰るべき場所であるとするならば、おいらはその場所をほぼ失ったわけで、これでやっとオトナになれたのかもしれない。
◆他人の本棚って新鮮だ。
◆「蝉がゐた。/夏じゆう歌ひくらした。/冬が来た。/困った、困った!//(教訓)/それでよかった。」(堀口大学「蝉」)。
◆母親が再婚するので、群馬へ帰郷。帰ってもやることは、家の掃除と古本屋めぐり→主にブックオフ百円ハンターで、やってることは変わらない。
◆ブックオフ百円ハンター、群馬県伊勢崎市??店の巻。麦朝夫『数行詩集』、穂村弘『シンジケート』、瀬尾育生『ディープ・パープル』、佐藤真里子『鳥が帰った日に』、『現代詩集3 ドイツ・ソヴィエト』、大島一雄『人はなぜ日記を書くか』、炭釜宗充『冬子の場合』、角田光代『キッドナップ・ツアー』、秋田昌美『ボディ・エキゾチカ』、辻アイ『母ちゃんが書いた』。穂村弘『シンジケート』が百円で!!!
◆またまた出ました、ブックオフ百円ハンター、群馬県前橋市??店の巻。エルンスト・ヘーゲン、大塚ひろ子訳『秘書の口説き方』、吉村智樹『まぬけもの中毒』、林不忘(=牧逸馬=谷譲次)『魔蔵』、ちくま文学の森『なまけものの話』(ねずみ男が出てこないのが惜しい。なまけものっていったら、ねずみ男じゃないか!!)、グループ万華鏡『セピア色の言葉たち』、玉置勉強『恋人プレイ(2)』、K・歌舞老『賛美バイアグラ女体巡礼記(3)』。このK・歌舞老『賛美バイアグラ女体巡礼記(3)』ってのがスゴくて、文章もちょっとヤバいけど、なんといっても、まん拓付き!!!!
◆近所の古本屋「いいだや」にて。マルクス『ドイツ・イデオロギー』、掘田善衛『情熱の行方』、フィンケルシュタイン、田村一郎訳『音楽は思想をどう表現するか』。三冊で百円。
◆群馬には「富士書店」というブックオフ型の古本チェーン店がある。ここが凄いのはエロ関係の充実度。なにしろ田舎だから店舗面積が広い。一歩足を踏み入れると、エロ本、アダルトヴィデオの数に圧倒される。セーラー服、スクール水着もなんでもござれ。とにかくエロエロエロエロのエロ尽くし。一見の価値あり。富士書店で買ったのは、川崎苑子『ポテト時代』、夕凪薫『eye-spring-』、電光石火轟『OLサンダー』、堤玲子『わが闘争』、神林長平『完璧な涙』『あなたの魂に安らぎあれ』『言葉使い師』、山田風太郎『くノ一忍法帖』、姫野由宇『自動鳥獣撃退装置』。あと、ビデオで『いかせたい女』。今岡信治監督のピンク映画『デメキング』のビデオ。ピンク映画というのは、原題と劇場公開用の題(「濡れ濡れ人妻オナニー」云々の扇情的なやつです)とがあって、それでビデオ化されるときはまた題名が変わるので、ややこしすぎて困る。『デメキング』の場合、『デメキング』が原題で、公開題はちょっと忘れたけど、ビデオ題が『いかせたい女』となる。『デメキング』という題を聞けば分かる人にはピンとくるだろうが、いましろたかしの同名マンガを下敷きにしている。これ以前の今岡作品は、少し画面がふらついていて頼りない感じだったが、『デメキング』以降は、画面の構図がバシっと決まっている。これを境に何か迷いが消えたのだろうか、
◆まんだらけをぱくったような名前の「ほんだらけ」へ。Nの車で。ほんだらけは、ブックオフ型の古本チェーン。群馬ってこの手の古本屋が多いような気がする。三上寛『子供の頃僕は、優等生だった』、B・ベッテルハイム、中野善達編訳『野生児と自閉症児』、トリスタン・ツァラ『イマージュの力』、『小林勝作品集(3)』、深沢七郎『人類滅亡的人生相談』。深沢七郎『人類滅亡的人生相談』は、最近人生に悩んでいるNにプレゼント。これ読んだら、体が軽くなるよ。軽くなりすぎちゃって逆に困るかもしれんが。
◆上とは違う日に、ほんだらけの上とは違う支店へ。伊勢崎??店。ここはミステリー関係の稀覯本がたくさんあって、店長のこだわりを感じる。大友克洋『ヘンゼルとグレーテル』が五千円で売っていたが、これは安いほうなのか。あと、鈴木漁生や川崎ゆきおの全集出版という奇特な企画でおなじみ幻堂出版の発行する『何の雑誌』などという、東京でもあまり見ないような少しマニアックな雑誌が売られていて驚き。『何の雑誌』は全国に千人ほどの読者はいるらしいから、群馬にいても不思議ではないが。音楽雑誌では『イーター』も売られていて、これも驚き。買ったのは『イーター(5)』、松川紀代『やわらかい一日』。ここでもまた穂村弘の歌集『シンジケート』が売ってた。群馬に帰ってから、もう二度も古本屋でみかけた。この狭い地域で『シンジケート』が二冊もあるなんて、なんかちょっといいね。やるね群馬。
◆「ブックマーケット」伊勢崎上諏訪店、ブックマーケットもブックオフ型の古本ショップ。こんな群馬の片田舎にまで、潰れた光琳社の本が流れてきているとは思わなかった。とりあえず佐内正史の写真集『わからない』を、三百円と安かったので二冊購入。これ欲しかったけど、定価だと四千円以上するのでずっと買わずにきた。これ以外は全部百円で。さすが百円ハンター。『ロシアアヴァンギャルドの絵本』、安藤元雄『カドミウム・グリーン』、ジョン・ファウルズ『魔術師(2)』(帰ってよく見たら、カヴァーは2巻だけど、中味は1巻だった。ややこしいことすな。)、栗原彬『やさしさの存在証明』、尾花ゆきみ『海の星』、田中小実昌『拳銃なしの現金輸送車』、『ゲイ・リポート』。
◆ブックオフ桐生西店で、妹と百円ハンター。雁須摩子『どいつもこいつも(1)』、篠有紀子『さみしい夜の魚』『白のイノセンティ』、ささだあすか『恋について語ってみようか(1)(2)』、アラン・シリトー『渦をのがれて』、現代風俗研究会編『不健康の快楽・健康の憂鬱』。
◆帰省中の買物は以上。それぞれの店に行ったのは同一日ではないが、まとめて書いた。つかれた。ブックオフを全国行脚して、詩集や歌集を安く集めて、詩歌集専門古書店を作れるんじゃないだろうか。思潮社の詩集だって百円で仕入れられるわけだから、リブロのぽえむぱろうるより利益はあがるような気がする。以下は読んだ本。
◆穂村弘『シンジケート』(沖積社,1990)。塚本邦雄坂井修一林あまりが文を寄せている栞が挟まっていなかったので、栞だけ違う店から抜き取ってしまった、群馬のほんだらけ伊勢崎店で『シンジケート』を買う人、すまん。例えば「『猫投げるくらいがなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ』」、「『とりかえしのつかないことがしたいね』と毛玉を玉に巻きつつ笑う』」、「『酔ってるの?あたしが誰かわかってる?』『ブーフーウーのウーじゃないかな』」、「抜き取った指輪孔雀になげうって『お食べそいつがおまえの餌よ』」、「『自転車のサドルを高く上げるのが夏をむかえる準備の全て』」、「子供よりシンジケートを作ろうよ『壁に向かって手を上げなさい』」あたりの歌は暗唱できるほどなのだが、実は『シンジケート』は立ち読みで済ませてしまっていて、買ってはいなかった。今回ゆっくり通読して、思っていたよりも屈折していたなぁという感想。いちばん切なかったのは、あとがきにかえた散文「ごーふる」で、これほどの美しさと強靭さをそなえた散文はなかなかないだろう。☆☆☆☆☆。
◆安藤元雄『カドミウム・グリーン』(思潮社,1992)、読了。「奇数に乾いた二月から奇妙に濡れそぼる三月へ/私たちは手さぐりで歩く もう何も見えないから/生あたたかい風が顔にあたりに触れるのを頼りに/その風の来る方角へせめて唇だけでも差し出そうとする/このあたりでは何が破壊されているのか けたたましい/退避命令のサイレンを誰が誰に鳴らすのか//風に乗って ひりひりする粉末のようなものが/むきだしの顔を襲うが なに 黙っててのひらで拭えばいい/こんなことは昔からあったさ 私たちの生まれるずっと前から/失われ続けた無数の卵 この生あたたかい風 退避命令!」(「退避命令」)。たしかに僕等、生あたたかい風に乗ってくるひりひりする粉末にさらされている。☆☆☆☆。
◆松川紀代『やわらかい一日』(ミッドナイトプレス,1990)、読了。「なんとなくたよりないふたご/背中あわせであった分だけ萎縮した/ふたごなんてどこにもいるけれど//土地のはしっこまで逃げてゆくひとり/ため息のなかまでついてくるもう一人/忘れてしまいたいふたり もうしらん顔しとこ/産まれた日から奪い合い/おかあさんの熱いおっぱい 父さんの舟のひざ/叔母さんのおみやげ 先生のことば 友達の笑顔//そして母さんのおどろき びっくり目/なんどもみせてその身振り ひとりだけを褒めないで/ほんとうのことだと言わないで//ほんとうのことを言うのがほんとうだと思っている心ない人たち/ほんとうのことを聞くたびやせてしまう/嘘でほんとうのことをつつんで抱いて//ふたりともいいといって!/かあさんはえらばれたふたごのかあさん/ふたりといないふたごのかあさん//気むずかしいふたつのどんぐり/ふたごのやじろべい/車と?の空が気になるお天気屋//つりあっていても 涙/つりあっていてもつりあっていてもまだまだ/ふたりの秤がふたご座になって夜空につりっていればいい」(「秤」)。
◆麦朝夫『数行詩集』(詩学社,1999)、読了。表題とおり全て一頁におさまる短い詩。情景をフレームで切り取ったものが多い。良かったのは「いちばん恥ずかしかったこと?」。「彼氏のうちで ウンコしとなって したんやけど/ふと過ぎて流れへんねん 悩んでたら/どないしたんや 言うて彼氏が戸を叩くし/エーイとおもて ウンコをつかんで/窓の外へ投げたら 通ってた小学生が/ウワー ウンコが降ってきた/言うて ハッハハハハハ//投げたんだ テレビの彼女 天使のようにすばやく/愛でからっぽにするために 崇高なウンコを」。☆☆☆☆。
◆佐藤真里子『鳥が帰った日に』(詩学社,1998)、読了。気に入ったのは「ポトス」。あとはどうでもいい。「いつも二十度の室内/外は降り続くぼたん雪/呆れるほど打ちのめされている/こんな日にも/陽にすべての華を向けて/どこまでも伸びていく/ポトス/君が好きだ/君がつくる/小さなジャングル/新鮮なO2/それらに包まれて/裸で眠るのが好きだ/室温育ちのくせに/野生の眼差しがまぶしい/光合成をしている緑の膚がまぶしい/ポトス/君が好きだ/君の少年のような歌声が好きだ/病んでいる街に住み/考える余裕も与えずに運んでいくスピードから/外れる勇気を与えてくれた/いまは石ころのような/愛という言葉をまだ信じている/わたしを笑わなかった/ポトス/君が好きだ/いまだに大人と子供の間を行ったり来たり/不透明さを不透明のままに理解したくない/わたしだけど/四人しか入っていない真昼の映画館/トラボルタの『フェノミナン』を二度も観て/二度も同じ場所で泣いている/わたしだけど/ポトス/君が好きだ/真冬にひとりで消えてしまった彼のような/君が好きだ」。違う詩にポプラという語が出てくるが、ポトスに比べたらポプラは甘すぎる。☆☆☆。
◆『イーター』vol.5(テレグラフ・ファクトリー、発売・星雲社,1998)をさらっと読了。インタビューは、灰野敬二、遠藤ミチロウ、山崎春美、SAL VANILLAなど。このSAL VANILLAって、むかし和光大学の学園祭のチビさ知らズのライヴで歌っていた女性じゃないかしら、その人ちょっとタイプだったな、と思って買ったんだが、全く違っていました。灰野敬二が、三里塚コンサートで鶏を殺したことについて、「あれから肉が食べられなくなった。やって知るべきことなのか、もうやった苦い経験をしている人間がそれを止めるべきなのかは、ちょっと僕には言いきれない」と言っていて、このナイーヴさはさすがである。遠藤ミチロウはV6の深夜の音楽番組「ミミセン」で、むかしライヴ臓物投げたとか相変わらず語っていたが、灰野に比べたら無邪気で、そこがミチロウの良いところでもあるのだろうが……。この「ミミセン」という番組は、アングラ系のライブ映像が「おもしろ映像」的な扱いで流される。この前は、マゾンナのライヴが流れていた。マゾンナがテレビで流れるってのもすごいが、しかも、ライヴ中に暴れすぎて、機械のコードが抜けて無音状態になって、場がしらけて観客がちょっと笑うところがピックアップされていた。☆☆☆。
◆佐内正史写真集『わからない』(光琳社)。光と緑。☆☆☆☆☆。
◆『ロシアアヴァンギャルドの絵本』(婦人生活社,1996)。企画・構成がワタリウム美術館。赤と黒を大胆に配すれば、たちまちロシアアヴァンギャルド。あと若い娘がよくやる写真に色を付ける手法、あれも実はロシアアヴァンギャルド。☆☆☆。
◆角田光代『キッドナップ・ツアー』(理論社,1998)、読了。たぶん文学プロパーは角田光代なんてバカにしそうだが(たしか渡部直巳は貶していたが)、おいらは好きだよ角田光代。これは母と別れてしばらく会っていなかった父親に「誘拐」される娘の話で、父親と旅するなかの出会いと別れで、娘は、結局人はひとりなんだと自覚するようになる。父親の貧乏っぷりとそれをいたわる娘が泣かせる。ときどき乱暴になる娘の話し言葉が新鮮。☆☆☆☆。
◆炭釜宗充『冬子の場合』(新風舎,1998)、読了。第四回新風舎出版大賞受賞作。事故で体の感覚がなくなってしまった男だが、ペニスは立つ。入院先の看護婦と関係を持つが、その看護婦には秘密があった。帯びに「秘密」とあるからどんな秘密かた思ったらたいしたものではなかった。新風舎の本はブックオフにたくさんあるねぇ。☆☆☆。
◆細野不二彦『ママ(全9巻)』を読了。中学生の時のめりこむように読んだ。これは個人的に特別なマンガであって、とても冷静には読めない。☆☆☆☆☆。
◆『小学性a』を妹に借りて読む。SHあRP発行の同人誌。描き手は、山本七式、HACCAN、A10、SHあRP、さめだ小判、Apsマツモモ、あるじ、辻武司、Mokeke、伊崎ゆ、西E田。全体的に絵のレベルが高い。とくにA10の放心状態の目の表現が上手い。お話では、森の中で開放的なストリーキングを楽しむ小学生を描いたMokeke。☆☆☆☆。
◆『小学性b』のほうの描き手は、山本七式、HACCAN、Neo Black、こけこま、氏家もく、わんぱく、影虎、あるじ、鉄乃巨刃、しろ〜、松竜、久坂宗次、比内鳥実芳、いさみ、碧慧了介、むろいゆうき、伊崎ゆ、西E田。目をひいたのはNeo Blackと、碧慧了介のくねくねしたした線の口。☆☆☆☆。
◆雁須摩子『どいつもこいつも(1)』(白泉社・花とゆめコミックス)、読了。雁須摩子のユニークな特性が一番露出しているのではなかろうか。関係性のとまどいの間合いが。☆☆☆☆☆。
◆篠有紀子『さみしい夜の魚』(白泉社・花とゆめCOMICS,1985)、『白のイノセンティ』(同,1986)、読了。『アルトの声の少女』を読んでいらい、目に付くと買っているが、『アルトの声の少女』を超えるものはない。『アルトの声の少女』は作者が作品に巻き込まれていた。『アルトの声の少女』以降の篠有紀子は、妙に冷静に、大人になってしまっているのではないか。☆☆☆☆。
◆ささだあすか『恋について語ってみようか(1)(2)』(白泉社・花とゆめCOMICS,1996-1997)、読了。人と人が違うことのおもしろさ。「付き合う」ということが、ふたりの共同体化ではないということをささだあすかは教えてくれる。☆☆☆☆。
◆田村信『奇妙キテレツ劇場』(日本文芸社,1988)。下品なギャグなのに、絵がすっきりしすぎだと思う。☆☆☆。
◆上杉可南子『大正のきいろい月』(小学館・PFコミックス,1992)。上杉可南子の絵はちょっと古臭いが、ときどきゾクっとさせる色気がある。☆☆☆。
◆夕凪薫『eye-spring-』(メディアックス・MDコミックス,2000)、読了。『COMICアリスくらぶ』でデビューしたときから気になる作家だった夕凪薫、ようやく初の単行本。めがねっ娘、女教師などありとあらゆるものを取入れ、長編への意気込みを感じる。夕凪薫はペニスの描き方が上手くて、ほんとに猥褻なペニスだ。たしか同人誌を『エヴァンゲリオン』で描いていたが、この『eye-spring-』はちょっと内容が『エヴァ』っぽい。☆☆☆☆。
◆玉置勉強『恋人プレイ(2)』(講談社・アッパーズKC,1999)、読了。出会いと別れ。これはまた切ないなー。
☆☆☆☆☆。
◆電光石火轟『OLサンダー』(講談社・アフタヌーンKC,1991)、読了。これは一緒に行ったNが発見した思わぬ拾い物。部長と不倫するOLと部長の妻が、巨大ロボ(ボディコンダー、オバサンダー)に搭乗して戦う。めちゃくちゃテンションが高くて、バカバカしくも壮大なホラ話が素晴らしい☆☆☆☆☆。
◆今年の夏は、いままで三十年エアコンなしてやってきた人でも耐えられないでエアコンを買ってしまうほどの暑さらしい。屋外プールぼ水温が37度らしい。そんな中、芝刈り機で芝生の芝刈りをしていたら、ふらふらしてきた。
◆「むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救い」(坂口安吾)。
◆自転車で、ブックオフ百円ハンター、目白駅前店の巻。マンガは、山下和美『ガールフレンズ(1)』、篠有紀子『メッセンジャー』の二冊。あとは、『12 water stories magazine』vol.1 No.2、平井弘之『管』、尾花ゆきみ『水花姫』、原田夏鷲『夢と小人』、雨矢ふみえ『ポワン区にて』、R・D・レイン『結ぼれ』、ギルバート・アデア『作者の死』、鈴木晶、森田義信編訳『ニュー・ゴシック』、A・E・ヴァン・ヴォクト『スラン』。以上。百円棚の前に立つと、「ハンターハンター百円ハンター」って呼びかけられるんだ。並んでいる百円本から「買ってよ、買ってよ、安いよ。ぼくおもしろいよ」、「あら、わたしのほうがおもしろいわよ」って。モテモテなのだ……。
◆NHKドキュメンタリー「地球時間」。トンネルを掘って、ベルリンの壁を下から超えようとする学生たちの話。掘り進んで行くと、水道管が破裂していて、水がどんどんたまっていく。これは市当局に言って、水道管を直してもらうしか手がないが、そんなことしたらトンネル掘ってるのがばれてしまうかもしれない。しかし他に方法はない。言いにいったらやっぱり怪しまれた。「なにかたくらんでいるな」。でも東ベルリン市当局は、怒りもせずきちんと直してくれた。ちょっといい話。
◆尾花ゆきみ『水花姫』(大田出版,1992)、読了。父親が行方不明、母親は自殺。孤児になり、世界から見放されたような少女が、養護学校にたどり着いて、また世界とのつながりを見出して行く物語。全く知らない作者だが、ブックオフの百円棚を眺めていたら目にとまったので買ってみた。そしたら当たり。予備知識なしの偶然の出会いで、いい本に出会うとうれしいものです。☆☆☆☆。
◆原田夏鷲『夢と小人』(詩学社,1989)、読了。「前時代的なドラマは/またも人の心を掴もうと/苦し紛れに僕等に問い掛ける//安らぎの時の提供は/自分でしか出来ないのに/こんな古臭い物語を演じている僕等//あれは/画像だったか 劇場だったか/僕らの目の前であったのか//一人の老婆が/バラを差し出して/哀しそうにしていた夕暮れ時//空威張りの主人が/またもやって来て/前をうるさく通り過ぎて行った日に//ペテン師好きの人は/これを眼で表現し/抜けた入れ歯を/また もとに戻そうとする//あの人は走り過ぎてしまったのだ/こう警官が呟いた時も/いかにもみすぼらしく/やはり彼女は体を左右に動かして/あの舞台の方を眺めていたものだ//劇の終わりに/充分な位の拍手があった二十五年前/あの時も/こうして/花を差し出されたものだ」(「奈落」)。「通りすがりに/ハンバーグ食べて/それで眠ろうとしていた頃//電車乗るのがもったいなくて/二十分程歩いていた頃//今でもベルが鳴る/目覚ましの/君と二人でいた頃の/これというもののない部屋//喫茶店ではよく話していたけれど/公園ではいつも/黙っていたけれど//けんかの後は/いつも角ののりまきだった//互いに/失うもののない生活/いつか/日の沈みゆく屋根//うつむくことが青春だとは思わない/星を見上げることが美しいとは思わない//けれど/信じ合うことが/今でも僕の青春/いつでも僕の青春//あのハンバーグの/最初のひとくち」(歳月)。青春の詩に「青春」という語を使うと、あまりに俗になり過ぎてしまうので難しいが、この場合は最終節の「あのハンバーグの/最初のひとくち」で救われている。追憶の詩は感傷に流され甘々になりがちだが、このふたつの詩は、詩として矜持を保っている。☆☆☆☆。
◆「この間まで1分間って90秒だと思ってたの」(ガッツ石松語録)。ガッツは、奇跡の人だ。respect!!
◆熊沢加代子『SEE SAW』(紫陽社,1988)、読了。ベストは後書きの「私にとって詩とは、農夫にとっての鍬のようなものです」。詩のほうは「家族の明かり」。「狂わずに/トリ肉のてんぷらを食べた//闇はまだ薄らかなはずだが/カーテンは閉められている/ガラスに映る日常茶飯との/不意の対峙を予測し/そこに自分を見るのはイヤなのだ/写真や鏡とは違う/何かとらえどころのない/むしろ 私は/窓を開け放ち/闇と一体になるだろう//一枚の布を引くことで/私は今日も/私のテリトリーを守った//狂わずに/トーフのみそ汁を食べた/狂うどころか/楽しそうな笑い声すら上がるのだ」。紙一重に自分を保っているのが魅力。☆☆☆☆。
◆木内寛子『ウバラという地名』(紫陽社,2000)、読了。こちらの詩のよさはよくわからなかった。☆☆☆。
◆『パイク』vol.8(ふゅーじょんぷろだくと,1998)、読了。描き手は、天真楼亮一、うらまっく、ロケット兄弟、KINSAN、あめかすり、水城晶、TAGRO、ときずみえみし。同人誌セレクションで、うげっぱ、美樹とんぴ、ピロンタン、夕姫ありす、大藤玲一郎、南条飛鳥。天真楼亮一の絵は程よいアニメ絵で、例えば『フラミンゴ』作家郡ほど突出していないので、普通にエッチだ。あめかすり「ブルーに敏感」は、作家志望の女子高生が、卒業して町に出て、男と出会い、現実と出会って、作家の夢を破棄するまで。あえて言えば岩館真理子風の絵柄だろうか。とにかく扉から終わりまで、気を抜かず丁寧に描いている。美樹とんぴは絵、お話ともイキオイがある。TAGRO「歩いて車でアダムスキーで」最終回。単行本ですでに読んでるが、何回読んでもこのラストの落ちは素晴らしい。☆☆☆☆。
◆『パイク』vol.12(ふゅーじょんぷろだくと,1998)、読了。こっちは、あめかすり、TAGRO、うらまっく、ロケット兄弟、3号アニキ、KINSAN、天真楼亮一。同人誌セレクションは、梅玉奈部、ドルタイバシ、空鵺、井荻寿一、たいらはじめ、なつのすいか、T-2号。個人的に『パイク』というと、TAGRO、あめかすり、うらまっくの三人である。この三人を表舞台に出したというのが、『パイク』最大の功績ではないか。T-2「放課後の罠」は、メイドがこれでもかといじめられてヒドイ。T-2、ちょっと気になる作家。☆☆☆☆。
◆東陽一監督『ラブレター』、テレビ埼玉で観る。詩人金子光晴とその愛人との実際の関係をモチーフに映画化。隣の奥さん(加賀まりこ)や、光晴の奥さんのいやがらせにあったり、金子光晴は女を束縛するくせに、自分は他の女とイチャイチャしていたりで、結局、女のほうは精神病院に。金子光晴が愛人を「うさぎ、うさぎや」って呼ぶんだけど、恥ずかしくてみちゃいられねーな。愛人役の関根恵子は美しかったが、しかし、わざわざ映像化することじゃないね。田中未知の音楽は、中途半端なシンセ音楽で気が抜けた。女が金子光晴のことを「底抜けにやさしくて、底抜けに残酷な人」と言うのは、まさにその通りで、往々にして、やさしさは一方通行なものになりがちで、与えるほうにとって相手の人格など邪魔になる。それは、与えられるほうにとっては残酷なことだ。例えば、何をされても怒らないやさしい人というのは、相手を人だと思っていない、だから怒らないってことだ。徹底したやさしさは、人を人だと思わない残酷さと同等だろう。
☆☆☆。
◆「哲学というのは、国家によって処刑された者を師と仰ぐところから始まる」(田崎英明「The Public's Fear」『現代思想』2001年6月号)。
◆夕飯買物帰りに古本屋で細野不二彦『太郎』の一巻を立ち読みし始めたらたちまち引き込まれて、五巻まで一気に立ち読み。☆☆☆☆☆。
◆やまじえびね『お天気といっしょ(1)』(集英社ヤングユーコミックスワイド版,1996)、読了。童話作家と音楽家カップルのホンワカ日常もの。時間がゆっくりと流れている。木村千歌『パジャマ・デート』をもっとメルヘンチックにした感じ。こういうの好きだ。シンプルな線で描かれた女の子がかわいい。☆☆☆☆。
◆日本貧乏菌研究学会『爆貧菌』(情報センター出版局,1998)は、全国から集めた貧乏エピソード集。いつもパセリご飯の貧乏女子が、みかねた友人に焼肉定食を奢ってもらい、あまりのごちそうに鼻血を出したとか、貧乏のあまり近所の小学生に500円を借りる25歳男子とか、色々おもしろいのはあるんだが、ベストはこれ。大阪の55歳の男性から。「特に可愛くもないネコと私をつなぐものは仲間意識以外の何物でもない。/日が暮れると家に来てにぼしにむしゃぶりつく彼が同志に思えてくるのである。/そして頭を残して去って行く彼に怒りを覚える毎日だ」。☆☆☆☆。
◆『現代思想』2001年6月号、読了。岩谷宏の連載「歩行と思索」は、ステージ/オーディエンスパラダイムからピアツーピアパラダイムへ。「今、網(ネットワーク)の上で、階層の本性と網の本性が激烈に不和衝突している。網は、階層的にではなく、網的に用いられるべきであり、(……)インターネットを従来の階層的政治構造のための選挙投票&集計の新たな利便とみなしたり、(……)有料コンテンツの新たな販路と見なす勢力は、網を見て網を見ることができない盲目の人たちである」(19頁)。
特集は「恐怖の政治学」。以下、気になったところ。まず斎藤貴男インタビュー、聞き手は酒井隆史。「竹中(平蔵)のよく言う言葉で、アメリカは素晴らしい、普通の学歴をもった人が夜遅くまで働いて、そのときちゃんと24時間スーパーがあって、そこで物が買えて食事が出来てハッピーなんだけど、日本では大店法があるから、夜やってない、という。ここで彼が言う普通の学歴というのは大学院卒以上です。そうでない人はそもそも視野の外です。そのスーパーで大学なんか出てない人が働いているという視点がないんです。あってなおかつ差し引きこれがいいんだと言うんではなくて、ただ奉仕する人々なんです」(61頁)。「三浦朱門――彼は(……)今度の学習指導要綱を作った一番の責任者です――授業内容とか時間が三割減るということで、これは学力低下にならないかと僕が聞いたときに、そんなことは最初から分かっている、むしろ学力を低下させるためにやっているんだ、と言った。今まで落ちこぼれのために(……)手間暇かけすぎて、エリートが育たなかった、これからは落ちこぼれのままで結構で、そのための金をエリートのために割り振る、(……)そのエリートがやがて国を引っ張っていってくれるだろう、非才、無才はただ実直な精神だけを養ってくれればいいんだ、とね。ゆとり教育というのは、ただできない奴を放ったらかしにして、できる奴だけを育てるエリート教育なんだけど、そういうふうにいうと今の世の中抵抗が多いから、ただ回りくどくいっただけだということです。こう断言しました」「教育改革国民会議の江崎玲於奈座長は、もっと恐ろしい。(……)最初はクラスの中でできる子とできない子を机の列で分ける程度だが、ヒトゲノム解析もできたし、人間の遺伝子が分かるようになると、就学時に遺伝子検査をしてしてできる子にはそれなりの教育をして、できない子にはそれなりの教育をすればいいんだ、と。教育は環境か才能かという議論がある。(……)僕はネイチャーだと思う、と彼は話したんですね」(63頁)。「いつの間にか、司法改革の流れはグローバル資本の信任のための司法という位置付けになっていて、敗訴者負担という流れになっています。つまり強い相手は訴えられないということですね。問題提起のためすらも訴えられない。これは教育改革も行政改革もすべて同じです。そして不満を言う奴が増えれば国民総背番号で監視する、ということですね。これがみんなに明らかになるには、あと1、2年かかるからばれないうちにやっちゃおうということです。彼らから見ると、僕らは消費する奴隷にしか過ぎないわけですから」「酒井 (……)グローバル資本がアンシャン・レジームを打破してくれるというイメージを打破しないといけないということですね」「特にそれが例えば福祉とかから入っていく。監視は徘徊老人のためだとか、それは卑怯だよね。卑劣にすぎる。人間がやっていいことじゃない」「酒井 卑怯者、というのが結論ですか」(63頁)。なんだか暗い気持ちにさせられるなァ…… 日本は大丈夫かね、おい。
次ィーー、渋谷望「消費社会における恐怖の活用」。「労働倫理が支配的な社会では、たとえば何かしら忙しそうにすることによって貧困者は取り繕うことができた。そうすることによって『怠惰』という道徳的非難を免れることができたわけである。しかし消費美学が支配的な社会では、貧困から脱出し、豊かな消費生活をじっさいに生きる以外に、貧困者は自己に対する『アブノーマル』という非難を払拭することができない。つまり貧困者は定義上、その存在が――行為がではなく――『欠陥』であり『罪悪』なのである」(72頁)。で貧乏人は=犯罪者となってゼロ・トレランス政策で引っ張られる、と。「ゼロ・トレランスはニューヨークのジュリアーニ市町のもとで展開された警察の取り締まり政策で、いまや全米に広がりを見せている。この政策のポイントは犯罪を根元から断つためには、いわばライフスタイルのレベルから取り締まるべきという考えにある。つまりそれは取締まりの対象を軽犯罪から日常生活の不品行にまで拡大し、しかもそれを徹底的に行うことを目指している」(74頁)。石原慎太郎あたり、これやりそうだ、絶対。
次ィーー、ジグムント・バウマン「法と秩序の社会的効用」。「共通のライフスタイルをともに探り出そうとする直接的な交渉をさけ、無味乾燥な法律の条文に訴えようとする傾向は、『接触の多様性』(リチャード・セネット)という、かつての都市生活において最も重要だった性格が、徐々にではあれ、容赦ないかたちで消滅しつつあることの帰結である」(88頁)。ささいなことでも法律によって刑務所へ入れられる。都市の特徴である雑多な「出遭い」はなくなっていく。出会う前にすでにお互い刑務所の中。で、刑務所はどうなってるかというと、刑務所は「社会復帰」ではなく「刑務所化」、つまり刑務所の中にしかない生活習慣を身につけさせることを目的としている。「もはや現代の刑法制度の実践者たちが、誠実なものであり表向きのものであれ、『社会復帰の意図』を宣言することなど考えてもいない」(90頁)。そいで、刑務所の外の人々は、常に不安を抱えている。「不安を抱えた数多くの人々は、こぞって安全の追求を志向するようになる。人々は、安全に対して安全以上のことを期待しているのである」(95頁)。安全と利便性につけこまれて、Nシステムやらひまわりシステムやら身分証明ICカードやらの監視体制が完備されていくわけだ。
次ィーー、土佐弘之「『人間の安全保障』という逆説」。「『人間の安全保障』という概念の背後には、中心から周辺へと向けられた一方的なまなざしや中心が周辺を管理するといった、フーコー的な『統治性の問題』があること」「資本は国境を比較的簡単に超えていく一方、その資本をもたない身体は国境を超えていくことができない。こうした国境の半透過性は、両者の間の非対称的な権力関係をそのまま反映したものだ」(179頁)。貧乏人は移動できない。例えば、地雷ゼロキャンペーンのテレビ番組で、坂本龍一が地雷地帯へ飛んで行って取材する。菅野美穂が現地の少女と友情を育む。しかし二人とも、取材が終われば帰れるのだ。その移動の権力性が全く反省されていない。「よくぞ。あんな危険な所にいった」とむしろ賞賛されている。そう、例えば「ウルルン滞在記」などを観て感動している奴など最低なんだ。☆☆☆☆。
◆浜岡賢治『浦安鉄筋家族(16)』(秋田書店少年チャンピオンKC,1998)、読了。排便の噴射で猛回転する観覧車には笑った。☆☆☆☆☆。
◆田中圭一『昆虫物語ピースケの冒険』(小学館少年サンデーコミックス,1991)、読了。下品さを堪能。下品さというのは即物性だろうから、目に見えるよう可視化するマンガと相性が良いと思う。☆☆☆☆。
◆西村しのぶ『SLIP(1)』(白泉社JETSコミックス,1994)、読了。消費社会では、商品(とくにブランド製品)の選択センスが自己表現になるわけで、そこらへんの機微を西村しのぶは上手く描いてきた。消費のポジティブさを描かせたら、西村しのぶの右に出るものはいないと思う。でも、西村しのぶが一貫して描いている「ゴージャス」さは、あまりに過剰だから、ほとんどの読み手は「ああ、うらやましいわぁ」と憧れるしかない。自己表現として真似るというところまではいかない。「ゴージャス」というのも「下品」の裏返しだから、目に見えるよう可視化するマンガと相性が良いと思う。☆☆☆。
◆蓮古田二郎『しあわせ団地(1)』(講談社ヤンマガKC,2000)、読了。無為無職の夫(21歳)とパート妻(19歳)との貧乏団地生活ギャグ。なぜか夫はいつも全裸。「今日も駄目明日も駄目でもしあわせ団地」(カバーより)。☆☆☆☆。
◆
「むかし聟(むこ)どのがはじめて舅の家へ行く時に、何か前からおもしろそうな世間話の用意をして、いい時刻に出すのがよい。ただだまって食ってばかりいると笑われると、友だちに教えてもらいました。それでその日はひととおりの挨拶がすみ、いよいよお膳が出て酒盛りもはじまったころに、聟は箸を膝の上に立てて、こういう世間話をしたそうであります。なんと舅殿、おまえ様は一かかえほどある鴫(しぎ)をごらんになったことがありますか。いやそんな物はついぞ見たことがない。そうでござりますか、私もまだ見たことがござりませぬ。それでおしまい」(柳田國男『日本の昔話』角川文庫より「103 聟の世間話」)。
◆久々にブックオフ百円ハンター。要町店にて。マンガは、『パイク(8)(12)』、やまじえびね『お天気といっしょ(1)』、ジョージ秋山『パットマンX(1)』、蓮古田二郎『しあわせ団地(1)』。
◆活字のほうは、熊沢加代子『SEE SAW』、木内寛子『ウバラという地名』、以上二冊は紫陽社の詩集。三枝昂之、田島邦彦編『処女歌集の風景』、山田風太郎『伊賀忍法帖』、山田詠美『蝶々の纏足』、日本貧乏菌研究学会『爆貧菌』、で、ラストは今回の収穫、中井英夫『中井英夫全集(6)(7)』。これ、百円じゃなかなか手に入らないだろう。定価だと文庫なのに千五百円もする。
◆ブックオフがオンライン販売を始めたらしい。もらったチラシによると、日本最大級のオンライン中古書店だそうだ。→ebookoff
◆どうでもいい話だけど、ゴハンとオカズを同時に食べ終わらないと気持ち悪い。オカズが先に終わってしまって、ゴハンだけ黙々と食べるというのは――あるいはその逆も――我慢ならないのだ。これは物心ついた頃からそうだ。だから、「ゴハン食べきれないから、あげる」とか言って、ドサっとご飯だけよこす行為は許せない。無神経だ。そーいう人って、たいていオカズだけ先に食べちゃってるんだ。「ゴハンくれるんなら、その分に見合うオカズもくれよ」と言いたい。いきなりゴハンが増えたら、計算が狂うのだ。いままでオカズ一口に対して、ゴハン二口で食べていて、しめしめこのペースならきちっと終了するな、めでたいことよ、と思っていたところへ、ゴハンだけ増えたら、……困るんだよ!!!! かなり。
◆永田和宏に「コーラ二本提げて見舞えり ああ二月風が虫歯にしみていたるよ」(『メビウスの地平』茱萸叢書,1975)という歌があるが、とにかくコーラというのは歯にひびく。コーラの砂糖の量って、きっと尋常ではないね。コーラを飲むと、決まって歯が痛くなる。歯の痛さというのは、放っておくと、いつのまにやら引っ込んでしまうものだけれど、コーラを飲むと、隠れていた痛みが再び召喚されてくる。いてえ!!! そもそも、……コーラって何なんだ。
◆「小奇麗にまとまっただけの中途半端なエンタテインメントなど読みたくはないし、かといって自己を対象化できないまま単なる『気分』をあたかもリアリティであるかのように描写する手つきにも心を動かされない」(斧田小、早見純自選最低作品集『純にもぬかりはある』ひよこ書房,2001)。
◆図書館で借りた『文藝』2000年冬号、読了。時代遅れに去年の号を読むのもオツなもんだぜよ。特集「なぜ人を殺さなくてはならないのか なぜ自分を殺してはいけないのか」。また青臭い特集ですな。まず青山信治と佐々木敦の対談より、佐々木敦の発言。「僕の考えでは、黒沢(清)さんはたぶん、世界が滅亡してもいいと思ってるんですよ。世界が終わってしまっても知ったこっちゃないよ、と彼は思っている。しかし青山信治は、やっぱり世界は滅亡しちゃいけない、それは防がなければならないのだと、ある長い逡巡を経た上ではあれ、素朴に、だが強く信じている」。これは鋭いと思う。石川忠司と神山修一の対談より、「社会学やってる学者が『彼の問題はわれわれの問題』ではないのかとか言うとき、実はこの『われわれ』に当の学者先生本人は入ってないぜ」(61頁)。例えばポスト構造主義者が、「大きな物語」の消失とか「間テクスト性」とか「差異の戯れ」とか「メタ言語はない」とか言って、ある種の不安定さを強調しているにも関わらず、実は当の本人は、絶対的に安定した場所にいるのと同じく? 「そもそも社会学は対象=問題との距離の取り方が変だ。対象に深刻に脅かされるほど近くでもなく、あといって個々の出来事が意味をなさなくなるほど近距離ではない(……)何を言ってもそのことで全く自分が変化しないまんまでさ……」(61頁)。しかしそんな社会学者ばかりではないよ、確かに理論屋のほうが多いし、メディア的に露出しているけど。特集外の小説ではやはり笙野頼子。それとアイカワタケシ。アイカワタケシは全く素晴らしい。
文藝賞受賞作、黒田晶「YOU LOVE US」。スナッフビデオとか友人同士の残酷な享楽的殺人とかハデな仕掛けに目がいきがちだが、文章はよく練られているし、とにかく読みやすくあっというまに読める。とくにスケートボーディングする場面の描写が卓越している。「多分テクニックが凄いって言うべきなんだろうけど、何か空間をムリヤリ歪めてボードと身体を押し込んでるみたいだから、けっしてエレガントとは言えない。そんなふうに rough に、残忍な動物みたいにスケートする奴は、おれはあんまり見たことがない。タカシみたいに滑ろうとする奴らは多い。でもおれは奴のスケーティングが嫌いだ」というあたり、上手い。単行本は『MADE IN JAPAN』と改題されて出ているのを店頭で見かけた。優秀作は佐藤智加「肉蝕」。まだ十七歳だそうだが、これは相当なものだ。これが受賞でもいい。大島弓子の「バナナブレッドのプディング」を連想した。あとラストで時制が歪むところで「ジョカへ」も入っている(こーいうのはどうでもいいことだが)。なんか久々に良い「小説」を読んだ。うれしい。気になるのは、若手の純文系作家って、一人称ばっかで三人称で書かないのね。これは問題だと思う。☆☆☆☆。
◆情事接続したい。
◆テレビで子供にクイズを出していて、問題が「お父さんとお母さんがケンカすることをなんて言う?」。で、一人目の子供は、「お金のとりあい」と答えた、二人目はの子供は「限界」と答えた。「おかあさんはキレイですか?」「きれいきれい……きれい好き」ってのも笑えた。
◆ちょっと前に、外務省で消火煙をばらまいて暴れた男のニュースが流れて、それを見ておいらが「こーいうことやって、おれが捕まったらどうするよ、差し入れもって面会きてくれるか」と訊ねたら、K曰く「囚人と面会者を仕切る、あのちっこい穴の開いたガラス板、あの穴に、うまい棒を差し込んでやる」と言われた。そりゃ、確かにうまい棒は好物だけどさ……、そんな渡し方やだ。
◆「『人の噂によるとあなたと潤とは十二階から飛ぼうなんて約束したそうだな』/『どんなものかな?』/『あなたは馬鹿だから、子供みたいな事を考えて、それが恋だと思っているかしらないけれど……』/『知らないけれど……何? その次は?』−白蛇−」(辻潤「手紙の一節」『辻潤全集(1)』五月書房,1982)。
◆ビートたけしとダンカンとキャッチボールする夢。矢井田瞳と石橋けいとTOKIOの国分太一が踊ってる夢。また詩を書くがあまり良くない。
◆少しずつ読んでいた『辻潤全集(1)』(五月書房,1982)、やっと読了、452頁もあるんだもん。
「一体僕という人間はなにをして暮らしてきたろう? さよう、まず僕の精神生活はラブレターを書いて暮らしてきたといって差し支いない。少しでも異性の対象が見つかると、その女に宛てラブレターを書いていた。そしてそのラブレターというのは、たいてい自分の勝手なイリュウジョンを相手の女に投げかけて、実は自分の肖像画を描いていたに過ぎない。相手の女こそいい面の皮だ。/僕は結局、自分に惚れてばかり暮らして来た人間だといってもいいかも知れない。従って、他人や社会のことには昔からあまり興味が持てなかった。/自画像を描いては自慰をやっていた人間なのだ。小説などが書けないのはあまりに当然過ぎる。そんな野心も興味もテンデなかったのだから」(『浮浪漫語』序詞)。ここまで冷静に自己分析のできる「文学」者は珍しいだろう。なにしろ最近まで(今でも?)、「相手の女に投げかけるイリュウジョン=自分の肖像画」が「文学」として通用してきたのだから。『朗読者』なんてモロそれだもんね。
「自分にとって真理は不在である/なぜなら、何物も自分以上ではないから/この『バケツの中の一滴』/この『ツマラナイ人間』である自分以上ではないのだ! −スチルネル−」(『浮浪漫語』エピグラフ)。
「たとえ日常生活そのもの、つまり働くことに酔えないまでも、せめて異性なり、酒になり、なんになり、夢中に酔っ払うことになったら、さぞや幸福なことであろう」。
「なぜ他人が所有権を持って自分にはそれがないのか――こんなことを漠然と考えてくると、僕は言い知れぬ不安に襲われて、また今さらのようにこの世に自分の安住の場所のないことをしみじみと感じさせられるのである。それはお前にお金というものがないからだ、と教えてくれる人がある。金はどうして得られるのか?――と訊ねると、それは働くことによって得られるといわれる。しかし単に働くことによって人は果たしてどれ程の金を獲ることができるであろうか?――そして働かないではどうして金を獲ることが出来ないであろうか?――働くとはそもそもどういうことなのか?――」(「浮浪漫語」)。
「分析の赤裸な鈍針で、あらゆる確実性の眼を抉り出せ!」。
「世の中の役に立つ人間になることは自分にとって一番醜悪なことに思われる、例のボオドレエルが言っている」(「『生活破産者』の手帳より」)。
「昔はいま、死にきれぬ臆病者ありけり。半生を夢の如く暮らし、日夜駑馬の如く鞭打たれ、よろばいつつも、なお一縷の自惚れに頼り、……」(「あるこおる」)。しかし辻は餓死して死にきったのだ。
「確固不抜の意志だとか、変わらざる信仰だとか、主義を終始一貫して守るだとか、そんなことはまるで自分にとっては空中の楼閣のようにしか見えない」。
「攻略であることを意識してやる『正直』は信用もできるし、アブナ気がない。しかし、『馬鹿正直』という奴に出遇っては手がつけられない。世の中の『不便』はみんな『馬鹿正直』が生み出すものじゃないだろうか?」(「Melanges」)。
「うるさいのは自分のかけている色眼鏡をやたら他人に押し売りをしようとする奴だ。自分が考えて、信じているだけでは満足せずに他人にまでそれを押しつけようとする奴だ」(「ですぺら」)。つまり、そういう人達は自らの安定を求めたいのだろう、自由主義史観の人達とかね。
「ありがたくも勿体ない大日本帝国臣民たる籍が抜けない限り、『わが輩』が『猿』でない限り、無能なら無能なりに『職業』というものを持たなければならぬのである。実際、なにをやっても碌なことの出来ない己れは、区役所や村役場の届けの職業欄には『無職透明』とかなんとかしておきたいのだが、無産者の無職というのは大日本帝国の法律というものがお許しにならない」(「文学以外」)。だから国からしたら、引きこもりは許されない。
「無法庵は二階の六畳に万年床と共同生活をしながら、冷えきった番茶をガブガブ呑み、時々「あァーあァー」と度外れなあくびとも、嘆息ともつかない声を出しながら、机に向かったり、ねころんだりしているらしかった」(「らぷそでいや・ぼへみあな」)。無法庵というのはもちろん武林無想庵のことだろう。類は友を呼ぶというか、無想庵が辻潤を住まわせて、辻潤の書いたものをおいらは読んでいて、その生活はここに書かれているのと同じような生活である。
「ダダは線ではない、ダダは点である」(「あびばっち」)。つまり連続ではないってこと?
「いくら借り物(の思想)だろうが、よければ少しも恥ずかしがらずどしどしと自分のものにして利用したらばいいのだ。(……)滑稽なのは昔借りた物を如何にも祖先伝来であるかの如き顔をして、臆面もなく振りまわしている馬鹿がいることだ」。
「野枝さんのような天才が僕のような男と同棲して、その天分を充分に延ばすことの出来ないのははなはだケシカランというような世論がいつの間にか僕らの周囲に出来あがっていた。/その頃みんな人は成長したがっていた。『あの人はかなり成長した』とか、『私は成長するために沈潜する』とか妙な言葉が流行していた」。この妙な言葉は未だに流行している。最近では三木道山のレゲエ「Lifetime Respect」の歌詞「尊敬しあえる相手と共に成長したいね」とか…… みんな「成長」が好きなんだ。成長できない人は人ではないというような今の風潮はなんとかならないの? 「成長」「スキルアップ」「自己責任」とかクソだ。
「自分に恥ずかしいようなことは出来ないだけの虚栄心を自分に対して持っている。ただそれのみ。もし僕にモラルがあるならばまたただそれのみ」。資本主義社会においては、この「自分」が「会社」に置き換わってしまうことが多い。
「僕が千束町流浪時代に僕に酒を呑ましてくれたり、飯を食わしてくれたり、小遣い銭をくれたりしたのは、やはり私娼やバク徒やその他異体の知れぬ人達であったのだ」。
「野枝さんは子供の時に良家の子女として教育され、もっとすなおに円満に、いじめられずに育ってきたら、もっと充分に彼女の才能を延ばすことが出来たのかも知れなかった。もっと落ち着いて勉強したのかも知れなかった。不幸にして変則な生活を送り、はなはだ変則に有名になって、浅薄なヴァニティの犠牲になり、煽てあげられて、向こう見ずになった。強情で、ナキ虫で、クヤシがりで、ヤキモチ屋で、ダラシなく、経済観念が欠乏して、野性的であった――野枝さん。/しかし僕は野枝さんが好きだった。野枝さんの生んだまこと君はさらに野枝さんより好きである。野枝さんにどんな欠点があろうと、彼女の本質を僕は愛していた」。さすがラヴレターの名手、面目躍如の名文である。
「未練がなかったなどとエラそうなことはいわない。だが周囲の状態がもう少しそうにかなッていたら、あの時の僕らはお互いにみんなもッと気持ちをわるくせず、つまらぬ感情を乱費せずにすんだのでもあろう」(「ふもれすく」)。
「現代では金が人間の欲望のシンボルなのだが、変な人間が出てきて、自分の生産した品物を現在の金では交換することは真平だといい始めたらどんなことになるだろう」。
「私にはもう実際特別なんにもいおうと思っていることはなんにもないのである。――だから私はどんなことでもいえるのである。私の心持はカメレオンのように花時の天気のように絶えず移りかわってゆくが、まだ死にたくはないのである」。
「倉田(百三)さんだって、世間のある人々の考えているように変態性欲者でばかりはあるまいが、どうもやはり憑かれた人なのがお気の毒だ。自分の内の賤民を克服するなどと、いっているのではどうもはなはだ困ったものだ」。倉田が「賤民」を克服すると言う、その物言いの中の「賤民」とは誰かということだ。区別分けの権力が巧妙に隠されている。
「革命という言葉があるが、(……)ちょっと景気がよくセンチメンタルで、なにか非常に悲愴で、男性的で、男子一生の事業の第一位にあるように考えるのがよくない」(「きゃぷりす・ぷらんたん」)。現代のアナキスト(例えば『Anarchist independent Review』)でさえ「革命以後」を問題にしているというのに、相変わらず『援交から革命へ』なんてタイトルの本を出す宮台真司のセンスのなさよ。
「ダダの精神を体得する者のみは永久に新しく、いつも生々としています。/なぜならばダダはいつでもLifeそれ自らの姿で、矛盾の織物を平気で着て歩けるからです」(「ぐりんぷす・DADA」)。
辻潤については、本人の書いたものよりも、評伝のほうが遥かにおもしろいな。とくに高木護の描いた辻潤本が抜群である。☆☆☆☆。
◆TBS夜十時からのドラマ、『世界でいちばん暑い夏』、二回目を見る。岸谷五郎が罪をかぶせられて逃げる、典型的な逃亡者ものドラマ。妻役の和久井映見にメロメロです。和久井映見は範疇外だと思っていたんだけどなぁ。なんかグッとくるんだよなぁ。和久井映見が好きってちょっと反動的だな。
◆テレビ朝日深夜「虎ノ門」、井筒監督の辛口映画採点コーナー、今日は『ギフト』。井筒監督、サム・ライミのファンだなんて、信頼できるね。『ギフト』は☆☆だった。先週の『A.I』はゼロだった。
◆「夢は大株主。高校二年生のころから大株主になりたいと思いました」(「トゥナイト2」におけるアイドル栗生未来の発言)。
◆鬼束ちひろと高校で同級生だった。修学旅行で彼女のカバンを預かったのだが、どこかに置き忘れて、なくしてしまった。そのカバン、電車の中で見つかって、運転手がとっておいてくれているというので、電車の先頭へ二人で。渡されたカバンの中味はなくなっていた。彼女は受け取ったカバンを持って、車内をスタスタと歩いていく。おいらが「ごめん、ごめん、怒ってる?」と追いかけると、「いいから、いいから」と無表情に言う鬼束ちひろ。という夢。
◆落ちていたので、『週刊少年チャンピオン』NO.33を拾って読む。『チャンピオン』を読むのは久々。クセのある作品が多く、格闘、お色気、不良、SF、ラブコメ、ギャグ、シリアスとバラエティにも富んでいる。これなら毎週読んでもいいかも。巻頭カラーは藤澤勇希「BM−ネクタール−」。近未来パニック巨編。ヒロインの女の子が、劇画からアニメ絵への過渡期(1980年初期頃か?)の頃のような絵柄で、ちょっと懐かしい感じがする。妖しい感じがでていていい。板垣恵介「バキ」は、スタイルが立っている。漫$画太郎(ピエール瀧原作)「樹海少年ずーいち」は、画太郎の脱構築的コピー機使いが冴えている。つまり同じ顔ばかりってことだが、おもしろけりゃいい。水島新司「ドカベン」はもういいです。芹沢直樹「逆探偵史郎シリーズ」は小中学生男子向けのお色気担当。浜岡賢治「浦安鉄筋家族」は今回は不調か。松島幸太朗(森高夕次原作)「ショーバン」は弱小チームが主役の少年野球もの。原作の森高夕次って、『アクション』の「おさなずま」の原作の人か? とりあえずおもしろくなりそうな展開。馬場民雄「虹色ラーメン」はタイトル通り、「味っこ」系のラーメン味比べもの。こーいうのって、必ずあるけど、人気があるのかしら。伯林「しゅーまっは」は絵柄がイマドキでかわいい。松山セイジ「エイケン」、これもお色気担当。『チャンピオン』って、お色気が多いから好きだ。少年誌はそのものズバリを描けないから、どうやってお色気を出すかに頭を捻らねばならない。で、ときに捻りすぎっていう裸の出し方とかあって、例えば以前連載していた「オヤマ菊之介」はその点でおもしろかった。小山田いく(達山一歩原作)「生命のダイアリー」は、闘病ノンフィクションで、いきなり深刻に。八神健「ななか6/17」は絵柄の魅力だな、とくに主人公のめがねっ娘は、そのスジの人にはたまらないだろう。イチバンおもしろかったのは、4コマギャグの施川ユウキ「がんばれ酢めし疑獄!」。不条理ギャグ系でこれだけおもしろいのは偉い。絵がしょぼいのが玉に傷だが、続いてほしい。続けていけば絵も上手くなる。あと、おおひなたごう、高橋葉介といった大御所も描いているが、今回はどうもつまらなかった。☆☆☆☆。
◆テレ東「TVチャンピオン」はモー娘通選手権。やっぱ、なっちと矢口だな。で同時間TBS「うたばん」のゲストが3、7、10人娘。「チュチュチュチュチュ サマーパーティ」って曲、メロディ、歌詞、アレンジが完璧で泣けてきた。
◆チャンネルを回していたら、古臭い画面が。ロマンポルノっぽい。この雰囲気からいって、神代辰巳だろうか。どうやらテレビ埼玉は、毎週木曜夜にロマンポルノを放送しているらしい。主演はジョニー大倉と天地真理。自殺しようとする女とそれを偶然助けた男、とうぜん恋に落ちる。だが男は女が殺人犯だと誤解して彼女を責める。女はビルから飛び降りておしまい。切ねえなー。クレジットを見たら、脚本・石井隆、監督は神代ではなく池田敏春だった。まだまだ修行が足りない。タイトルは分からずじまい。☆☆☆☆☆。
◆詩を書く。
◆「インディアンの酋長=フェレイターは、ちょっとした休みを利用して、羽根枕から一、二本の羽根を取り出し、ペニスの包皮と亀頭の間に挟みます。これはインディアン酋長の戦闘帽のように見えて、ちょっとした息抜きになります」(G・レグマン、斯波五郎訳『オーラルセックス入門』池田書店,1975)
◆古本屋で、佐佐木勝彦『何なら俺に話してみろ!1999』、浜岡賢次『浦安鉄筋家族(16)』、能條純一自撰劇画集『北家の獅子』、橋本治『江戸にフランス革命を!』、全て百円。ここ最近、単価百円以上の買い物をしていないような…… 食料品を除いて。
◆庭屋幸子『橋のある町』(思潮社,1995)、読了。ベストは冒頭の「亀T」。「桜並木を/右にみて/左に曲がると/古ぼけた木の橋がある//山茶花の蕾がふくらみ始めた頃/黒い亀が現れるようになった/橋のたもとに陣取って/通行人をさまたげるのだ//しきりに/甲羅から顔をさし出すと/頭を上下にふる/長い爪を地面にこすっては/人々のようすをうかがっている//わたしが/亀の頭をよけて通ったのに/尻尾の尖ったところにぶつかって/冷やりと跳びのいた//ギョロリとした目で/口をパクパクさせている//どきどきしたが/まつげの長い/可愛いお子さんでしたね/・・・ ・・・ ・・・/勉強もお出来になったのに/・・・・・・ ・・・・・・/小学校二年生の運動会で一等なのに/鉢巻がずりおちてましたね/ケッケッケッケッ クックックックッ//プロ野球選手の癖を真似ては/皆を大笑いさせてくれましたね/グフ グフ グフ/この橋を渡って/買物に行くのをよく見かけましたよ/ギーズ ギーズ ギーズ」。この「亀T」だけ飛び抜けて出来が良いと思う。あとのほとんどの詩は、団地の主婦的風景を会話体で詩っている。☆☆☆☆。
◆能條純一自撰劇画集『北家の獅子』(竹書房近代麻雀コミックス,1987)、読了。画面の構図がビシっと決まっている。☆☆☆☆。
◆佐佐木勝彦『何なら俺に話してみろ!1999』(講談社月マガKC,1998)、読了。おいらは唐沢なをきの知性よりも佐佐木勝彦のバカさを支持します。☆☆☆☆。
◆「歯が抜ける 歯が抜ける/大事な歯が抜ける 歯//歯医者に行きたいけど/歯医者はとてもこわい/入れ歯を入れたいけど/全部は抜けちゃいない」(カステラ「歯が抜ける」『世界の娯楽』CBS SONY,1989)。歯が抜ける夢をよく見る。実際にいくつか抜けている。顎が外れそうで外れない夢もよく見る。実際に外れたことはない。
◆『ビデオボーイ』8月号、購入。いつもは立ち読みですますが、今回は聖さやか嬢の袋とじがあるので、買わないわけにはいかない。轟夕起夫のコラム「再検!日活ロマンポルノ」、今回は『桃尻娘』。主題歌作曲の長戸大幸って、ビーイングで有名な長戸大幸だったのか、同姓同名かと思っていたが。原作は魚喃キリコも大好きとのこと。ストリップ劇場に出ているAV女優というコーナーで、白石琴子嬢が登場していた。がんばっているなぁ。白石琴子嬢にまつわるちょっと恥ずかしい思い出があります。ある日、白石琴子嬢のビデオをカウンターに持っていくと、「これ、前にも一度借りていますけど、よろしいですか?」って、そんなこと聞くなよ、もー。いまのレンタルビデオ屋は、会員のレンタル履歴の情報が記録されているのだ。親切なのはよろしいけれど、ちょっとありがた迷惑だよ、ホントにさ。確かに、同じビデオを知らずに何度も借りちゃうことってある。でも、そーいう無駄も人生だよ。
◆ロス・マクドナルド、中田耕治訳『運命』(早川書房,1986)、読了。
「彼もいろいろ厄介なことに苦しんでいた様子ですからね。その気持ちの捌け口になったのなら、私だって少しは我慢しますよ」(40頁)。「いきなり急ブレーキを緩め加速機を踏んだ。これはいいやりかたではない。しかし、腹に据えかねたのは腹に据えかねたことだ」(58頁)。我慢するときと怒るときの分別のつけ方。「私は母性愛なんか必要としないし、また与えられもしないまま、そこを出た」(43頁)。
「人が精神に異常をきたす場合、その人だけの問題じゃありませんのよ。家族全体に何かがあるのです。家族の一人が発狂したりすると、ほかの家族がその当人を贖罪羊にしてしまうことがよくあって、恐ろしい話ですわ。病人を棄てて――閉じ込めたり忘れてしまったりすることで、自分たちの問題が解決できると考えるんですね」(171頁)。「自分の置かれている人間の苦しみを救うために誰かを処罰しなければならないと考えて、贖罪羊を選び出してそれを悪と呼ぶのです。そしてキリスト教徒の愛と善徳は枯渇してしまうのですわ」(263頁)。マンガでいえば榛野なな恵の『ピエタ』がまさにこのような状態を描いてる。少し問題はあるが。
「『わたしは君を憎んではいないよ。反対だ』/私はかつて警官だったので、この言葉はやっと出てきたのだった。(……)。この世には善人と悪人しかいないという考え、そして、もし善人が悪人を監禁したり、小さな個人的な核兵器といったもので根絶やしにすれば万事太平だというような昔からの単純な社会通念に対して、今後も闘ってゆくことを望むかぎり、私はそう言わなければならなかったのだ」(260頁)。
ラストの総括。
「この事件の全貌をふり返ってみると、何か、美といったもの、あるいは正義というものが感じられた。しかし、私はいつまでもふり返っている気はなかった。罪の時間の回路は口に尾を噛んでおのれを貪りつくす蛇にあまりにもよく似ていた。あまり長いあいだ見ていると何も残らなくなるか、見ている当人も存在しなくなるか、なのだ。私たちのすべてが罪人なのだ。私たちはそうして生きることを学ばなければならないのだ」(273頁)。
こーいうミステリーが内田康夫や西村京太郎のように売れれば、世の中、ちっとは良くなる。☆☆☆☆。
◆日本コカコーラ「爽健美茶」。品名・爽健美茶(清涼飲料水)、原材料名・はとむぎ、玄米、緑茶、大麦、どくだみ、プーアル茶、はぶ茶、なんばんきび、月見草、チコリー、ビタミンC。
◆テレビを観ていたら、田中真紀子が外務委員会で、沖縄の女性暴行事件について、「自分の娘だと思うと胸が痛む」云々というような発言をしていた。いっけんナイーヴに見えるこの物言い、実は何も考えていない。被害者の気持ちになって痛みを分かち合うなんてのは、傲慢で最悪の代理の仕方だ。被害者の痛みを安易に自らの痛みにしない、あなたの痛みはわたしには解らないという仕方でしか、被害者と同じ所に立つことはできないはずではないか。そうして解らないからこそ、解ろうとするのであって、始めから解ってしまっては何もはじまらない。
◆チェリオ・ジャパン「LIFEGUARD」。品名・炭酸飲料。原材料名・果糖(果糖ぶどう糖液糖、砂糖)、はちみつ、酸味料、香料、ビタミンC、カフェイン、ナイアシン、グルタミン酸Na、アラニン、イソロイシン、フェニルアラニン、ビタミンP、ビタミンB2、ビタミンB6、スレオニン、ビタミンE、ビタミンA。
◆「宇宙センター、宇宙センター。聞こえますか、ぼくの声聞こえますか」(ロス・マクドナルド『地中の男』早川書房,1971)。
◆自転車で池袋へ。淳久堂で調べもの。しかし調べものをするのに新刊書店は役立たないことに気付くのだった。順序としては、図書館→古本屋→新刊書店だろうか。パルコ木下『漂流教師』(青林堂)を坐り読み。表現的には稚拙だが、それがある切実さを醸し出している。☆☆☆☆☆。
◆漫歩していたら、ごみ捨て場に『ドラえもんのび太のドラビアンナイト』が捨てられていたので、拾って近くの神社で読む。それにしても今日は暑い。なぜ原作では「しずちゃん」なのに、テレビや映画だと「しずかちゃん」なの? 映画のジャイアンは友情に厚くて、普段ボカスカやってるから、余計いい人に見えて得だなあ。映画だとドラえもんは必ずポケットをなくしてしまう、それで「ポケットのないドラえもんなんてただの中古ロボットじゃないか!!」なんて、スネ夫にひどい言われようされて、ドラえもん、かわいそうに泣いているよ……でも、その泣き顔の線がおもしろいんだ、ドラえもんには悪いけどね。☆☆☆。
◆テレビでやっていたので、宮崎駿監督『魔女の宅急便』をまた観てしまう。……キキはえらいなぁ。走り出す動きが素晴らしい。宮崎駿は原作付きの仕事をもっとするべきだ。オリジナルは『もののけ姫』で終了していいんじゃない? もう話は誰かに任せて、自身は演出の職人仕事に徹してほしい。☆☆☆☆☆。
◆伊藤園「キャロット100%」。品名・にんじんジュース。原材料名・濃縮にんじん、にんじん、はちみつ、レモン。
◆エルビー「さわやかレモン水」。品名・清涼飲料水。原材料名・果糖ぶどう糖液糖、レモン果汁、清乳、香料、酸味料、茶抽出物、ビタミンE。
◆ロス・マクドナルド、菊池光訳『地中の男』(早川書房,1971)、数日かけてチビチビと読了。唐突だが、吉岡実の詩の一節を。「大鋸の刃の輝く観念の世界から/『影に似ている』/その物自体を求めて/毒蛇のとぐろまく道をゆく/そこには奥行きがある」(吉岡実「異霊祭」『サフラン摘み』青土社,1976)。これは、ハードボイルド、あるいは探偵小説の本質を突いていないか。また、作中、「『……私は、あなたと息子さんに災厄が及ぶのを阻止しようとしているのです』/『私には、きみ自身が災厄のように思えるな』/一瞬、私は言葉が出なかった。彼は、人間の弱みに対するセイルスマン独特の洞察力で、私が自らは認めたくない事実――自分が、時には、災厄の触媒の役割を、それも自ら進んで、果たすという事実――を指摘したのである」(90頁)とあり、これもハードボイルドの本質である。つまり探偵が、現実的なごたごたを引き受け、停滞した場を掻き回すこと、そうして、奥行きを見出すこと。これは例えば、精神科医が、患者とその家族に対して行う療法のようではないか? そういえば、ロス・マクドナルドは、一番影響を受けた人物としてフロイトを挙げているのだ。☆☆☆☆。
◆ベルンハルト・シュリンク『朗読者』(新潮社,2000)、読了。カバーを取ると、都内でも一箇所でしかできないというフランス装が、シンプルかつ上品で美しい。これはちょっと前に結構売れて話題になったね、たしか。以下粗筋。十五歳の少年が年上の女性(三十五歳?)と関係を持って、やりまくり。ウラヤマシイ!! なぜか女性は少年に朗読を求め、少年はそれに応じる。そんな幸せな日々が続くけれども、とつぜん女性は少年の前から消えてしまう。年を経て少年は青年になり、大学で法律を学んでいる。あるとき、ゼミで傍聴した裁判の被告人が、偶然にも彼女だった。彼女は戦争中ナチの親衛隊員で、火事で焼け死んでいく収容者を見殺しにした罪で裁かれていた。裁判を傍聴中に青年は、彼女が文盲であることに気づく。だから彼女は朗読を求めたのだ。文盲であることで、彼女は裁判資料も読めず、裁判は彼女に不利に進んでいる。しかし彼女は、自らの尊厳のために、文盲であることを隠していた。青年はそれを裁判長に言うべきか悩む。そしてまた彼女に会うべきかどうか? しかし結局、青年は何もせず、彼女は無期懲役に。青年は刑務所に朗読テープを何十年も送りつづける(でも手紙は送らないのだ)。刑務所のなかで、女性は文字を習い始める。しかし女性は、恩赦によって外へ出られる前日に、首を吊って死んでしまうのだった…… ロス・マクドナルドを読んだあとでは、この主人公は逃げているなと思わざるをえない。男は女が文盲であることを裁判長に言うべきだし、その前に彼女と話しをするべきだ。「ハードボイルド」だったら当然そうなる。全体的に男の自己満足が鼻につく。帯でこれ誉めてんのみんな男だし。男の「文学」的な観念のごたごたなんかどうでもいいのだ。「ハードボイルド」のように、現実のごたごたに捲き込まれなきゃつまらない。これを読んで泣くような奴は「ハードボイルド」じゃないから信用できないね。☆☆☆。
◆「気合入れれば醤油もコーヒー」(ガッツ石松語録)。火曜深夜TBSの「クローンキッド」。浅草キッドがアイドルをプロデュース。作詞をガッツに依頼。できた詞の一節がこれ。みんなガッツさんならいいのに。
◆殿山泰司『バカな役者め!!』(ちくま文庫,2001)、読了。殿山泰司唯一の小説集。J文学完敗。「小説か。弱ったなアどうにかならんかい。おでん屋の倅じゃうめえ文章の書けるわけがねえ。おいババア三味線やめて金松堂へ行ってだな<小説の書き方>て本でも買ってきてくんねえか」(10頁)。「おれは何でも裏のほうが好きだ。明るい華やかな表通りより暗いじめじめした裏通りが好きだ。精神に欠カンがあんのかな。どうでもいいや。あとせいぜい生きても二十年。まだ二十年も生きるつもりかいな親ビン!! だけどできればアノ日を見て死にてえなア。アノ日とはなんだ!! アノ日とはなんだ!!」(19頁)。「おれは生まれたときから日本人だけど、いまだに日本人を理解できない日本人である。こんな日本人にダレがした!!」(60頁)。「<COCA COLA>のでっかい看板は国内に洪水の如くはんらんし、アメリカさんのメカケじゃないかと世界中のヒトたちが思っているんだから、このさい思いきって英語国にしてみたら。おれはどっちでもいいぜ。日本語もべつにしっかりおぼえる気はねえんだから」(65頁)。「気がついたら、コーヒーショップの前に、鎗を持ったオカッパの少女が、凧の絵のように静止していた」(81頁)。「男であるのに男が好きやったら、それでもええ。女であるのに女が好きやったら、それでもええ。人間であるのに羊が好きやったら、それでもええ」(91頁)。以下あとがきより、「敬愛する諸兄姉よ!! ニッポンは世界でも有数な最低の国だからね、革命の日が訪れるのもドンケツだよ。(……)どうすればいい。惰眠をむさぼるんだな。傾斜をはやめるんだ。朝から晩までOSOSOをしてもいい。傾斜をはやめるんだ。SOSじゃないヨ。敵を殺せ!! もっと傾斜がはやまるはずだけどな。どうでもいいか。ドウデモイイヨ」(147頁)。いま日本に生き難さを感じている小説家がどれほどいるだろうか。笙野頼子ぐらいじゃない? 文体からして町蔵と比べてしまうが、町蔵も負けてるんじゃないか。町蔵は自分語りに終始してしまう傾向があるが、殿山泰司は「聞いてくれこの狂騒曲」で、他者の重層したカーニヴァル状態を、全くカギ括弧なしで描いて、圧倒的な迫力である。「浅原六朗か、おれ龍胆寺雄のほうがいいと思うけどな」(150頁)という所があって、そうか殿山泰司と龍胆寺雄はつながっていたのか。おいらが去年買った唯一の全集が、神保町で買った龍胆寺雄全集(昭和書院)だった。龍胆寺雄は昭和3年『改造』の懸賞小説で大賞を受賞してデビュー。谷崎潤一郎や佐藤春夫に絶賛される。谷崎には「もう二、三作書けば、きみはもう巨匠だよ」というようなことを言われたはず。プロレタリア文学に抗して、吉行エイスケらと新興芸術派を名乗り人気を博すが、川端康成と対立し、そのイザコザでさっさと作家を辞める。イサギイイ!! その後、サボテン研究の世界的権威となる。アインシュタインが来日したさい、相対性理論の不備を指摘して、アインシュタインをうならせたとか、建築設計の腕も超一流らしいとか、龍胆寺伝説はさまざまある。今読めるのは講談社文芸文庫で『放浪時代』一冊と、ゆまに書房の改造社版の復刻が二冊。平凡社の『モダン都市シリーズ』にもいくつか収録されているが、もう絶版だろう。ところでおいらが出版社を作ったら、ぜひやりたいことの一つが殿山泰司の復刻だったのだが、ちくま文庫でやられてしまった。マンガでは駕籠真太郎だったが大田出版がやった。しかしまだまだ埋もれている作品はあるのだ。いつか個人出版社をやりたい。問題は流通なのだ。☆☆☆☆☆。
◆殿山泰司に捧げる詞を作る。「無職になると 片腕がしびれるなんて知らなかったな/知っていた?//sweet twentyfive//殿山泰司の文体には学ぶところが多い」
◆本田信次『PMトロント』(思潮社,1999)、読了。めくって一頁目、「十二年前トロント大学で机を並べたヤヤは/政治学では成就しないと/CNタワーの下の草むらで/テキストを焚きつけたが/彼は召喚されて/カメルーン政府の高官になった/移動する夜は/この世に生まれたときから/みんなもっている」(「移動する夜のために」)、という冒頭から引き込まれる。「線と点で戯れたぼくの人生も/賑やかな地上への郷愁をいっぱいにして/やがて錯覚で終わる日が近い」(「Discover discovery」)。「ときどききみの/生きている時間が冬のシュトラーセに飛び散って息もできない鳥を胸に飼う」(「きみの知らない場所から」)。「耳を澄ましている/耳を澄ましているだけで/自分の抜け殻を捨てるのは困難だが/どうせことばは死んだままさ」「二輪馬車、黒い婦人帽、絹のパラソル/『よく来たね。こんな郊外まで』/黄色い土をかけて/晩夏の想いをつたえる/『新しい土はある種の磁気を持っている』/ぼくらを感動させた祖母も/空に連れ戻されて鳥になる/どうせことばは……」(「青空」)。「最後までずぶぬれを知らない顔をして/銹びた水をびちゃくちゃびちゃくちゃ/なつかしい膝の揺籠で/がらんどうの青い傷が洗われていく/晩夏のにおいがたちこめる脱脂綿が/乾くまでのいっとき/ふわりととどまる未練も/すでに取り逃がしたかもしれないが」(「猫と二人」)。「『神の使いだと思えば標的をはずさないわね』/少女たちは笑っていた/やはり終焉は美学であるか/もう二度と出会わない人へと、その道は続いていた」(「オリオン」)。「目を閉じると/わたしのくに、/匂う風、/そして/あの日の風鈴の音」(「風鈴」)。「何をいっているのだ/さっきからきみは/カオス風の教授は声をからしている/遺伝子の利己主義なんてありはしないよ/何を武器にしてもいいから戦うことだ/もう、きみには背番号はない」(「The 21st century ブルース」)。消えていく感じというか、諦念というか、喪失感が全体的に漂っている。☆☆☆☆☆。
◆ぱんだくん「やっちゅー!!」(アランジ・アロンゾ『アランジアワー』主婦と生活社,1998)。
◆銀座マリオンの叙々苑で昼食ランチを奢ってもらう。1500円で肉、サラダ、キムチ、豆腐、スープ、スイカ、大根の酢の物、コーヒーの焼肉セット。焼肉なんて久々だよ!! うっ、食ってるあいだ、三回ほどイキそうになった。待ち時間に『月刊焼肉』という業界雑誌を読む。タレは肉の三分の一につける。良い肉ならば肉汁が出るので、タレがなくなるということはない。創業以来つぎ足してきたタレなどというもはウソっぱちで、タレは痛むものであるから、その場で作った生ダレがイチバン旨い。肉にかかった刻みネギは、肉より先に焼けて苦くなる、できれば肉の片側だけ焼いて、上に乗ったネギは焼かないようにすると良い。ホルモンが「放るもん」から来ているというのは間違い、とか色々勉強になった。定期購読してもいい。しかし女の子の家に行って、『月刊焼肉』が並んでいたら引くな。
◆ブックオフ中野早稲田通り店。奥本大三郎『虫のいどころ』、竹本健治『ウロボロスの偽書』、百円。百円均一棚に欲しい本がとくになかったので、ま、行った記念てことで。
◆奥本大三郎『虫のゐどころ』(新潮文庫)、読了。若者批判は紋切型になりがち、それで充足する読者の顔が見えすぎてしまうから? よっぽど上手くやらないとつまらない。以下、気になった折所。大学講師を辞めていく友人曰く「誰にでも貧乏をする自由があります」(55頁)。しかしこれは特権階級だから言えることですわ。「私は件のはこ河豚を机のうえに、大きなまて貝のうえに坐らせた。筏にのって常世の国から吹き流されてきたかたちだ」(142頁、中勘助の随筆より)。これはもう詩だ。荒川洋治もどこかで書いていたが、昔のもののいくつかは、抜き出すと詩になるクオリティがある。「十九世紀というのは、今よりはるかに貧富の差のあった時代で、(……)美食の結果、痛風に苦しむ人の数も多かった」(150頁)ってあるけど、痛風が贅沢病というのは単なるイメージで、実は遺伝が多いんじゃなかったけな。印象的だったのは、フランスの要請で日本初の昆虫採集をした田中芳男の小伝。はじめての昆虫採集にとまどうところなど、ほりのぶゆきがマンガ化したらおもしろいんじゃないか、と思った。あとはタイの旅行記。タイで少女が籠に五、六羽ずつ小鳥を入れて売りにきた、「初めは何にするのだろう、と思った。聞こうにも言葉が出来ないから、勝手にあれこれ推測をする。ペット、焼鳥、薬。そのうちに段々解ってきたのは、これをお寺に持って行って放鳥するという事であった。その考え方はよくわかる。西洋人なら偽善とか何とか言うだろうが、実際にこの女の子の口を糊する役には立っているではないか」(278頁)。鳥を媒介にした、この金の移動の仕方はスマートで美しい。☆☆☆。
◆望月六郎監督『岸和田少年愚連隊 超特別編』、観る。ビデオ撮り。今までのシリーズとずいぶん毛色が違う。主演、ココリコ。共演が、ホントにバカそうな顔のガキばかりで素晴らしい。脚本、NAKA雅MURA、実験作だが、とにかく笑えるのが良い。☆☆☆。
◆雑誌いくつか立ち読み。『ヤンマガ』はやっぱり読んじゃうな。「エリートヤンキー三郎」「ヒミズ」とか。『ヤングユー』は羽海野チカが初登場。『キューティーコミック』が廃刊されてどうなるかと思ったが、とりあえず描ける場があってよかった。絵はかわいくて良いんだけど、恋人との喧嘩→仲直っていう話、ちょっとストレートすぎないか。『快楽天』の月野定規、前に『カラフル万福星』で見たときよりもアニメよりの絵になっていた。あいかわらずエロい。この人は女性だろうか? 単行本が出る予定、買う。あと朔ユキ蔵の「少女、ギターを弾く」はますます絵に切れ味が増してスゲエ。『ピアザ』のナヲコはカラーピンナップのみでマンガなし。
◆NHKで宮崎駿と吉本ばななの対談。宮崎駿は、お決まりのバーチャルリアリティ批判。現代っ子はヴァーチャルなものに囲まれていて、リアルに出会っていない、と。ではリアルとは何かというと、「青大将がどかっと木の上から落ちてくる感じ」とか、「例えば、こう、うなぎをさばく時に、頭に釘を打ちつけて、やるとか」。……うなぎ屋じゃないんだから。あまりに素朴なリアル観ではありませんか。「現実の日常性や、それに対する公式的な見方は、私に言わせると、まだリアリズムではありません。」(ドストエフスキー) 。宮崎駿はリアルなアニメを目指しているらしいが、でも、主人公だけはリアルを脱しているように見える。あと宮崎駿の話を伺ってるだけなら、吉本ばななじゃなくてもいいんじゃねーの。