◆『「おおいがまくん。おきたおきた。そとへでておいでよ。/すてきなふゆだよ。こらんよ」/「いやだあ。」/と、がまくんがいいました。/「ぼくのベッドあったかいんだもん。」/「ふゆはきれいなんだ。/でてきてごらんよおもしろいから。」/「ごめんだね。」/と、がまくんがいいました。」』『「ふゆはきれいかもしれないけどね、ベッドはもっといいものだよ」』(アーノルド・ローベル『ふたりはいつも』文化出版局、1977)。
◆伊勢佐木モール近くに、マンガ・本とエロビデオ半々の新しい古本ショップ、ブックガレージ長者町店、発見。本は全部百円だというので、ショパン猪狩『レッドスネーク COME ON!』(東京コミックショー!! なぜか三一書房。)、桐野夏生『錆びる心』(主婦が離婚して家政婦に。主婦プロレタリア!!)、島田荘司『眩暈』(御手洗シリーズだけは読む!!)、谷川俊太郎編『和田夏十の本』、長田弘『猫がゆく』(猫は無産者の友!!)、幸田文『闘』、A・A・ミルン『クマのプーさん・プー横丁にたった家』、福永武彦『夜の三部作』、マンガは、佐藤まさあき『野望(1)(2)』。
◆家に帰って、ショッパン猪狩『レッドスネーク COME ON!』を開いたら、なぜかサイン入り。「笑芸徹心 ショパン猪狩」……意外と達筆。
◆モスへ木苺シェイクを飲みにゆく途中、猫を発見。抱き上げる。こういうときに、にぼしでも持っていればね。にぼし携帯用の小さなケース、よく薬を入れるようなケースの、にぼし版があれば売れないだろう(か)。ケースに「にぼし」と書いてあるの。
◆「ぼくのはじめてのポケットラジオ/放課後の校庭で/さつきさんはヒトサシ指つかって/ダイヤルを廻した//ただ英語の恋の歌、聴いてただけなのに/なにもかも/これから始まる気がしてた……//新学期/さつきさんは駆落ちした/上級生の山本と/十日も経って「無事保護」だってさ!/厚かましい山本はずうずうしく卒業していったが/さつきさんはそれきり学校に出てこなかった/なにが保護で/どこが無事よ/ぼくはさつきさんは/ほんとにバカだと思う//まだ青空の残る校庭に/素敵な風がふいた/ぼくのポケットラジオ持ったまま/スカートをおさえて/さつきさんはわらった」(阿部恭久「ポケット・トランジスター」『S盤アワー』)。
◆ポストに阿部恭久氏から詩集が。『田のもの』『S盤アワー』『恋人』の三冊。さっそくお礼状を書く。ついでに、心身とも弱っている地元の友人に手紙を書く。最近は電子メールではなく、お手紙がマイブーム。
◆高校生の敬語テストの結果が惨澹たるものだったと、ワイドショー『とくだね』で小倉智明が嘆いていたが(小倉は、誰に向かって嘆けばいいかちゃんと自覚して嘆いているから悪質)、高校生なんて大人とコミュニケイトしたくないんだから、敬語使えないの当たり前。敬語の上手い高校生なんて信用するな。「隠語」があることからでも分かる通り、そもそも言語はコミュニケートしないためのものでもある。
◆きのう見た夢→古川ロッパにこう言われる。「Aは自分の言うことを正しいと思っている。そして、Bも自分の言うことを正しいと思っている。そこから始まるのが『喜劇』なのだよ」と。これは多分、ルノワールの『ゲームの規則』にある科白、「この世には恐ろしいことがひとつある。それはすべての人間の言い分が正しいということだ」を、夢のなかで無意識に「改良」したのだろう。「恐怖」ではなく「笑い」にしているのだから、「改変」ではなく「改良」ではないだろうか。
◆『「かえるくん。きみひどくかおが青いよ」/「だってぼく、いつだって青いんだよ」/かえるくんがいいました。「ぼくかえるなんだもの」』(アーノルド・ローベル『ふたりはともだち』文化出版局、1972)。
◆石原まこちん『THE3名様(1)』、読了。無産者の学生らしき男3人が、ファミレスでずーっと駄弁っているだけのマンガ。もし「真実」というものがるなら、これはそれに近いものを描いている。☆☆☆☆☆。
◆雁須磨子『いちごが好きでもあかならとまれ。』、読了。ボーイズラブものだけれど、ここで描かれている恋愛のかけひきはヘテロの人が読んでもタメになる。同性愛者は異性愛者以上に、戦略的に恋愛するのかもしれない。とぼけたキャラクターに好感。☆☆☆☆☆。
◆『YOUNG YOU』6月号。田渕由美子「恋愛小説」後編のラスト。「ひとつ、わかったことがある/人を好きになるには、3日でじゅうぶんなのだと、いうことだ(少なくとも ぼくの場合)//今 ぼくの中には、3日間の早川祐子の、記憶があって/折にふれ、ぼくの心を、波立たせる//またいつか、会えるのだろうか、会えないのだろうか/それとも/ぼくはいつか、別な女性を、愛するのだろうか//しかし/限られた時間しか、持たなかった、父にくらべて/答えを、捜す時間は、じゅうぶんにある…と/まだ21歳の、生きている、ぼくは、考えるのだ」。この「まだ21歳の、生きている、ぼくは、考えるのだ」というモノローグが素晴らしい。あとは、たかさきももこ『白衣でポン』のすっきりした絵が好き。☆☆☆☆。
◆花輪和一『御伽草子』、読了。圧巻。昔話のもつ切実さがこれほど伝わってくるのは外にない。絵柄で形式を突出させることが必要だったのではないか、花輪和一は、近代的な内面を描かずに、ただ人間を観察するために。☆☆☆☆☆。
◆『トゥナイト2』、ピンク大賞の取材で、オイラの後頭部がちらっと映った。思わずピース。
◆「関東大震災直後、埼玉の一杯飲み屋に男が飛び込んできた。/『いやあ、あやうく殺されかけるところだった。避難する後をずっと朝鮮人が追っかけてくるんだもの』/するとおかみさんはこたえた。/『そりゃあんた、逃げる朝鮮人の先をあんたが走ってただけだよ。何であんたを追っかける理由があるもんかい』」(鹿島拾市「妄想には、現実を」『Anarchist independent Review』#10)。
◆新宿、模索社で『Anarchist independent Review』#10、と逆柱いみりのポストカードを購入。『Anarchist independent Review』はこれで最終刊。読み応えのある冊子がまたひとつ消えてしまった。最終刊の特集は「ポスト左翼アナキスト」。ブラック・ブラック、ジョン・ザーザン、ボブ・ブラックのテキストが翻訳されている。おいらはボブ・ブラックが御贔屓。「万国の労働者・・・リラックスせよ! 」(「労働廃絶論」末尾)。中島雅一による終刊の言葉、ラスト、「信頼関係さえあれば、私たちはいつでも協同できる。/そして、自分自身のアナキズムを生きている、すべての人びとに、未来への挨拶を!」。
◆紀伊国屋で待ち合わせ。女子三人に囲まれて、東大の五月祭へ。しかし、たいした内容ではなかったので、誘って悪いことしたなー。お茶して別れる。
◆本日のメインイベント、新文芸坐にて第13回ピンク大賞〜2000年度ピンク映画ベストテン表彰式&作品上映〜。文芸坐、新しくなってから来たことなかったので、あまりに立派に生まれ変わっていて、驚いた。だって、同じ場所にあることは知っていたのに、どこにあるのか分からなかったんだから。入場したらあがた森魚の曲がBGMでかかっていて、やるじゃん。
◆2000年のベスト10は、1位「せつなく求めて OL編」(オーピー・荒木太郎)。2位「ピンサロ病院3 ノーパン診察室」(新東宝・渡邊元嗣)。3位「花嫁は初夜に濡れて」(オーピー・国沢実)。4位「どすけべ姉ちゃん」(国映・上野俊哉)。5位が二本「果てしない欲情 もえさせて!」(国映=新東宝・サトウトシキ)、「不倫願望 癒されたい」(オーピー・国沢実)。7位「性奴の宿 うごめく女尻」(オーピー・池島ゆたか)。8位「団地妻 不倫でラブラブ」(国映=新東宝・サトウトシキ)。 9位「ロリ色の生下着」(オーピー・池島ゆたか) 。10位「B級ビデオ通信 AV野郎・抜かせ屋ケンちゃん」(エクセス・望月六郎)。次点、「欲情夫人 恥かしい性癖」(エクセス・北沢幸雄)。大蔵と新東宝がほとんどを占めている。
◆まず表彰式。司会は毎年、林由美香と神戸顕一なのだが、今年は池島ゆたか。新人女優賞、鈴木敦子の実物をはじめて見たけど、ちっけえなぁぁぁぁ。鈴木敦子と言えば、今岡信治『それでも。』(「ぐしょ濡れ人妻教師 制服で抱いて」)の名演は一生忘れないだろう。新人監督賞のカジノ、次回作を聞かれて「カラマーゾフの兄弟」と言い捨て舞台を去った。頼もしいなぁ。鈴木漁生のマンガに「ライバルはドストエフスキーあるのみ」とかいう科白があったのを思い出した。技術賞のカメラマン清水正二は欠席。今トレンディドラマの仕事をしているが、つまんないから早くピンクに戻りたいと池島ゆたかにもらしていたそう。
◆上映。まずは、荒木太郎『せつなく求めて OL編』。義父の面影をひきずる妹と、その兄の近親相姦に自堕落な母親もからんで……。いいとは思うけど、これが1位ってのは、インパクトがないような気もする。好きな人は好きなんだろうけど、おいらはノれなかった。☆☆☆☆。
◆国沢実『花嫁は初夜に濡れて』。テンポのいい台詞回し。全編にわたって笑える。☆☆☆☆☆。
◆上野俊哉『どすけべ姉ちゃん』。飄々と「軽く」生きる若者群像劇。人生そんなにたいしたこと起きない。たまにはちょっといいこともある。気になるのは、大蔵のピンクが、いろいろ工夫して絡みのシーンを撮っているのに対し、国映=新東宝のピンクは単調すぎる。まぁ、セックスなんて単調なもんだけど、さ。☆☆☆☆☆。
◆望月六郎『B級ビデオ通信 AV野郎・抜かせ屋ケンちゃん』、ところどころ納得いかないストーリーだけれども、これも主人公が「軽く」生きているのがいい。あと、望月六郎の感情を排したような演技が素晴らしい。☆☆☆☆。
◆「ときにはつらい人生も トンネルぬければ青い海」(『さわやか3組』のテーマ曲)。教育テレビの小学生向けドラマは、結末が視聴者側に放り出され、「ここから先は観ている者が考えよ」と唐突に迫られる。価値判断の要請を突きつけられる。民放の大人向けドラマのほとんどは、ボーっと観てりゃいいだけじゃない? そーいうのばっか観ていると、教育テレビのドラマって、なんだか新鮮。『虹色定期便』なんて、扱っている内容が深刻で、この前は、在日ブラジル人の子供がクラスで孤立している様子が描かれていた。
◆中板橋や大山商店街あたりには、一週間単位でコロコロと販売業者が変わる店舗がいくつかある。今週は中古CDの「だるまや」(本店は池袋)が出張出店していた。7 o'clock shadow『microdiver』、デカパンチョ『功夫音楽』を200円で。両方サンプル盤。デカパンチョはパフィーと似ている、ということはビートルズ系のブリティッシュロックに影響を受けた音。パフィーよりいいかも。7 o'clock shadowは佐々木敦のWeatherレーベル、サンガツに続く第二弾アーティスト。でもさ、オイラ、こーいう嶺川貴子系の、いわゆるキュートなエレクトロポップって、信用ならねぇと思うんだよな。なんとなくさ。
◆岩明均『骨の音』、田中圭一『昆虫物語』、駕籠真太郎『万事快調』とか買う。
◆「原発を地域に作られることには反対だが電力は使いつづけようという戦後革新思想の矛盾を、消費社会にに居直るという方向へでなく、生活の仕方を変えるという方向へのりこえてゆく(……)倫理主義的にではなく、<生活水準を楽しみなから下げてゆく>という仕方で(……)」(見田宗介『白いお城と花咲く野原』朝日新聞社、1987)。
◆中板橋商店街の古本屋で、根本敬『キャバレー妄想スター』と鳩山郁子『青い菊』が80円で売り叩かれていて、しかももう一年以上も棚にあるので、いたたまれない気持ちで買う。こーいう素晴らしいマンガたちが売れないってのは、どーよ? 根本敬『キャバレー妄想スター』を再読したが、この想像力の強靭さは、他に類をみない。☆☆☆☆☆。
◆ZONE『大爆発NO.1』を有線で聴く。ZONEって評判悪いけど、この曲、好きだ。
◆テリー・イーグルトン『批評の政治学』、読了。「脱構築」のあとにはバフチンの「カーニヴァル」がくるらしい? しかしもし「カーニヴァル」が「脱構築」のように流行ったら、「カーニヴァルする」って、言いにくくない? 以下、気になったところの抜書き。
「文学は深層を欠いている分それだけ、自律的なのである。文学ではありとあらゆることが表層において生起する。ただし、表層とはいってもそこには重層性や多様性がうずまいている。だから、文学言語はその外側で何かに出会うことはない。文学言語の意味単位はただ、内的相互関係においてだけ価値をもつ。せんじつめれば、それは、ある種の同語反復であって、自分自身を限りなく反復しひき延ばし再生産しているにすぎない。それは『希薄さへと還元された』言語、何物も反映せずただそれ自身であるような、それ自身の複雑で変則的な展開のメカニズムだけで支えられているようなそんな言語である。この意味で、日常性の拘束から免れている文学言語には、他に例を見ない自由奔放さと即応性とがそなわっている。だがそのような即応性はみせかけのものにすぎない。文学言語では、真実性の根拠はそれ自身のなかにあり、この事実から、必然性なるものが生じる。つまり、文学言語は徹頭徹尾還元不可能であるがゆえに、別のかたちではなくいまあらゆるかたちで固定されるということだ。修正がきかないという点で『必然的』なのである。(真実性の根拠を自分の中に樹立できず、外的秩序――伝統、道徳、イデオロギー――に真実性を求めずにはいられない文学とは、実のところ、劣等文学にすぎない。)/
こうなるとテクストの必然性は、作者の首尾一貫した意図の指標ではなくなってしまう。……。テクストを読めるものにし、確定的分析対象にふさわしいものにしているのはテクストの必然性に他ならないが、このテクストの必然性は、テクストは自分自身を産出するという事実と表裏一体となっている――テクストはその多様な意味連鎖を自らの手で発展させ活性化させるので、そこに作者の『意図』とか、前もって与えられた規範モデルとか、外的現実とかが、入り込む余地はない。批評の任務は、それぞれのテクストのなかにこの自己生産性の法則を、あるいは(同じことを別の言い方で語るなら)作品の可能性を決める諸条件を探り当てることである――ここでいう『諸条件』とは、出発点あるいは生産過程を逆にたどって得られる起源のことではなく、作品の自己生産の実際の過程、諸要素の多様性を損なわずにまとめあげる当該作品に固有の編成法と理解すべきである。」(33頁)。
「テクストの『語られざるもの』、構成要素の一つとしての沈黙、示し得ても語ることのできぬもの、そうしたものがイデオロギーとの関連でなぜ必要だったのかを説明するわけである。批評家が言葉を与えてやらねばならないのは、テクストの沈黙部分である。批評家が探りを入れるのはこうした作品の『無意識』の部分―作品の余白に刻印された歴史の作用――である。ある一つのことを語りながら作品は、それとは必ずしも同じでないいま一つのなにかを語らざるを得ない。……。
/作品はイデオロギーを『再生産する』のではないということ、つまり作品自体の矛盾は歴史的矛盾を反映していないということだ。事態はこの逆である。現実の矛盾がそこに反映するのをイデオロギーの力で不在ならしめたゆえに、テクスト内部に矛盾が生ずるのである。」(37頁)。
「批評とは、『別の語り方』を模索することではなく、『語られなかったこと』を探ることなのだ。」(40頁)。
「マシュレの初期の仕事は、『内在的』文学の科学を目指そうとするあまり、テクストをひたすら生産に還元して扱うだけで、テクストの消費という面に目を向けようとはしない。その結果、特定の読者との交渉過程のなかでのみ『生きる』、歴史的に変化する実践という、文学テクストのいま一つのありようは、完全に抑圧されることになった。」(42頁)。
「デリダは、意味の構築において、作者、意図、生産母体、それに歴史的状況が決定的な力を持っていることを(少しのちになってからのようだが)公に認め、自らが多元論者であることを強く否定したからである。」(98頁)。
「ド・マンのいう、不安定でかつ自己充足したレトリックの不確定性は、語のうちに事物をとらえようとしてつねに挫折するロマン派的絶望という暗い影をもつ、言語の自由な戯れに属している。言語と存在は互いに相容れないものなのだ。そしてド・マンは、私たちのうちの多くと同様、二つのあいだのえり好みを許さない選択を迫られ、存在を捨てて言説にすがりつくことを余儀なくされながら、妙に陶然としている。」(98頁)。
「新批評のいう作品の自律性と、ポスト構造主義のいう自由な戯れはともに、言説が『権力』であること――つまり歴史的諸力によって組織され、制限され、分節化され、歴史的諸力によって掘り起こされた意味論的な場であること――に対する無知の上に繁茂しているのである。」(100頁)。
「『ディコンストラクトする』こととは、意味、出来事、対象をより大きな運動や構造のうちに再刻印すること、再配置することである。それは、いわば絢爛たるつづれ織りを裏返すことである。それはそのまま、つづれ織りが世界に向けるいかにもきらびやかな姿がいかなる糸によって織り成されているのかをあらわにすることであり、裏面の決して美しいとはいえない糸のもつれをありのままに示すことでもある。」(143頁)。
「デリダやライアンが考えているディコンストラクションが主張するのは、真理は幻想であるということではなく、真理は制度的なものであるということである。」(151頁)。
「『哲学探究』のためのエピグラフを物色中に、ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインは、『リア王』からの次の引用を有力候補の一つに考えていた――『わたしは、おまえたちに違い(differences)を教えてやろう』。彼は友人の一人にこう語ったことがある。『ヘーゲルというのは、違ってみえるものが実は同じであることを言いたくて仕方がない人間にみえる。かたや私はというと、同じにみえるものが実は違うことを示したくてならないのだ。』」(177頁)。
「ウィトゲンシュタインとデリダ、この二人は、直接性の哲学への不信、つまり、言説を主体の経験に基礎づける考え方をことごとく疑ってかかるという点で、よく似ている。」(180頁)。
「あらゆる言説は決定不可能だと主張することと、あらゆる言説は一点の曇りもなく明晰だと主張することとは、その超越性と反歴史性において、どちらも同じである。この意味から、ポスト構造主義者のなかの『決定不可能性」教の信者たちは、形而上学という父親から生まれた放蕩息子に過ぎない。『正確な境界がないと、私たちは自分がどこにいるかわからない!』、こう語るときの語調――不安そうか、喜ばしげにか――によって、その人間が形而上論者か脱構築論者かが決まる。だが、両者のある種の共犯性もまた、このとき浮かび上がる。言語が『不確定』であるのは、最初からわかりきっている。もし言語が不確定でなかったら、言語は機能を果たし得ないだろうし、私たちは歩くことすらままならぬだろう。『どこかその辺に立っていろ』と語ったとしても、言語の『完璧な働き』は保証されるのではないかと、ウィトゲンシュタインは問うている。明確に境界の定まっていない区域は区域でないと頭から決めてかかったフレーゲは正しいのだろうか? ピンボケの写真はその人の映像とはいえないのか? ピンボケの写真をピントの合った写真でおきかえることがいつも都合の良いことなのか? 『わたくしが太陽までの距離を一メートルまで正確に述べないと、不正確ということになるのか』/
……。超越的観点から固定された境界が言説に存在しないからである。そして、この不確定性にもかかわらず、いや、この不確定性ゆえに、言語は産能性を帯びる。」(185頁)。
「神の死にもかかわらず、形而上学はもとの場所に居座っている。このことに気づいたウィトゲンシュタインとデリダは、ニーチェが始めた仕事をやり遂げよとする。だが、その過程で二人は、いま一つの宗教へと入り込む危険性に直面することとなった。考えられるものの極限に位置しようとする姿勢は、脱構築の強みでもありまた弱みなのだ。……。極限に身を置きつづけることでかえって、ウィトゲンシュタインがそうであったように、すべてをもとのままにとどめておく危険性がついてまわるのである。」(195頁)。
「記号は、ソシュール的抽象物とみてはいけないし、ましてそれを他の記号との交換関係において定義できるとみるのはもってのほかだ。記号とは、それがとらわれている物質的条件や社会的関係をはなれたら意味不明になるような、具体的なものに即した発話である。こう考えるバフチンにとって、記号はあくまで物質的なものであり、『多重にアクセントを置かれた』ものとなる。記号は、イデオロギー闘争の絶えず変化する要であり、決して安定せず自己同一性を保つこともなく、ただ他の物質的記号との『対話的』志向関係のなかに生息している。」(200頁)。☆☆☆☆。
◆金塚貞文『眠ること 夢みること』、読了。睡眠が労働の再生産のための睡眠になってしまっていること。☆☆☆☆。
◆よしもとよしとも『東京防衛軍』、☆☆☆☆☆。
◆明智抄『キャプテン・コズミック』、読了。この人は伊藤比呂美がどこかで書いていた通り、荒唐無稽さが魅力だと思うんだが、これはまとまっちゃってるな。☆☆☆。
◆麻耶雄高『木製の王子』、読了。新本格って期待外れのが多くて、もうあんまり読んでないけど、麻耶雄高と法月綸太郎には付き合うよ。☆☆☆。
◆「汽車に乗り遅れたけれど、だれに関係もなく影響もない。僕達自身のこととしても、その為に何も齟齬する所はない。いい工合だ」/「何がです」/「長閑で泰平だ」/「はあ」/「乗り遅れと云う事が、泰平の瑞兆だ」……。「これから、どの位待つのだろう」/「丁度二時間です」/「二時間だって」……。「その間、こうやってぼんやりしているのか。まあ、いいや、ほっておこう」/「何をです」/「何も彼もさ」/「はあ」(内田百閨u区間阿房列車」)。
◆東京ビッグサイトで第13回デザイン・フェスタ。全ブースを廻って足が棒。ポストカードをたくさん買う。詠屋、奥山純子の絵が好き。とくに奥山純子のイラストは、大友克洋の無機質さと宮崎駿の甘さの中間当たりの絵で、とても気に入っている。奥山純子のポストカードを買うために、毎回、デザインフェスタにいくと言ってもよい。あとは、マンガにでてくるような典型的な骨付き肉のクッションを購入。
◆タワーレコード配布の『ミュゼ』で、クセナキスが死んでいたことを知る……
◆「完成された作品は、――それじたいが苦悩だ/なぜなら/それは――、いかなる場合も――常に、新しい出発点と、なるからだ」(有吉京子『ニジンスキー寓話』、→bk1で購入)。
◆松下竜一『底ぬけビンボー暮らし』(筑摩書房、1997、→bk1)、読了。松下センセは年収200万を下る貧乏作家。毎日、妻と散歩にでかけ、カモメに餌をやるのが日課。川辺にすわって妻とかわす会話は、「そろそろ、何か思いがけない収入がこないもんかなあ」「きっと近いうちに思いがけない収入がくるような気がするわあ」。同窓会に行けば、「五十を過ぎて、まだ町でビラを配ったり、そんな青くさいことをしよるんか!」と同級生に言われ、中学一年の娘には「……。しっかりかせがんとだめやないの。杏子はクラスでも一番ビンボー人なんよ」と言われ。呑気でおおらかな松下センセの妻が魅力的。同じ系統の作家の妻に、辻邦生の妻がいる。妻は辻邦生にこう言うのだ。「稼がないで、いつまでも怠けていて。いざとなったら一緒に飢えて死にましょうよ」(辻邦生「ものぐさ太郎とものぐさ花子の物語」)。ところで、著者が始めに考えていたタイトルは『売れない作家の散歩三昧』『かろうじて作家です』だが、編集者の松田哲夫が反対して、現タイトルになったとあとがきにある。著者が考えていたタイトルのほうがいいんじゃない? そういえば、永沢光雄の格闘家インタビュー本『強くて淋しい男たち』のあとがきにも、始めは『負けるのは、まあ明日』というタイトルを考えていたけれども、松田哲夫にしたがって変えた、とあったような気がする。これも『負けるのは、まあ明日』のほうがいいんじゃない?☆☆☆☆☆。
◆江川広実『大おんな汁』(オークラ出版、1998)、読了。最近はレディースコミックでも明るいレズものを描いている。話はどうということもないが、絵柄が好きなのだ。お友達イラストにひじりれい。この人の絵も好き。☆☆☆。
◆ちば・ぢろう『抱きしめたい!』(大都社、2001、→bk1)、読了。千葉治郎といえばエロ方面で有名だが、これは、エロマンガ雑誌ではなく、『ヤングキング』に掲載された中編、短編集。「Hag Hagだだっこ」、普段はクールで優等生、はたから見れば、完璧で無感情っぽく見られている高校生男子。実は、「他人にうまくさわれない、なのに自分はさわってほしい」という感情が強く、ときどき発作を起こして誰かに抱きついてしまう。千葉治郎の絵はちょっとクセがあって、素人にはとっつきにくいかもしれない。しかし読んでみれば、はまること請け合いである。最近の千葉治郎が、作中で人を殺さないのは、何か心境の変化だろうか。☆☆☆☆。
◆三橋修『明治のセクシュアリティ』(日本エディタースクール出版部、1999、→bk1)、読了。江戸期には気にもとめられなかった「悪臭」が、明治の近代化の中で「貧民」とともに発見された。「貧民」は、清潔な「家庭」と対置されるものとして、蔑まれることになる。「家庭」はセクシュアルであってはならない。「家庭」から「悪臭」は除去されねばならない。だから貧民窟を描くルポでは、執拗に「悪臭」、獣の喩え、近親相姦が記述される。☆☆☆☆。
◆夕食。オリーブオイル、バター、にんにく醤油スパゲッティ。
◆「唄ってるときは、わけのわからないものになってしまいたい」(NHK『プライム10』の甲本ヒロトの発言)。
◆伊勢佐木モールのODEONビル内、先生堂古書店にて、佐賀純一『浅草博徒一代』、良知力『向う岸からの世界史』、『SFマガジン』295号(大野安之の単行本未収録マンガとハインライン来日)、『ユリイカ』1975年6月号(シオラン)、長田弘『食卓一期一会』→bk1で購入、マルクス、エンゲルス『史的唯物論』、『季刊 翻訳』1973年第2号(平井啓之「翻訳における『了解』の問題、片岡義男「私の、ほん訳論・その序」)、ヴィオレット・ルデュック『私生児』、『折口信夫全集2巻』(柳田を震撼?させた「髯籠の話」)→bk1、あと別役実が二冊、『言葉への戦術』『そよそよ族の叛乱』。ほぼ全部百円。あ、あと、ちば・ぢろう『抱きしめたい!』(→bk1)も。
◆ブックオフで、亀川省吾『鮫月』、松下竜一『底抜けビンボー暮らし』→bk1、別役実『山猫からの手紙』→bk1、オール百円。また別役実が……。
◆佐賀純一『浅草博徒一代』、読了。聞き書き。豊饒なアウトロー人生。解説が別役実。ま、また……。今日はなぜか別役づくしだ。☆☆☆☆☆
◆「もう、すべておしまいだ! 洋二さんとの楽しい新婚生活も、これからの希望に満ちた人生も……。/感じてしまう。絶対に感じるものかと思うのだが、肉体は急速にエクスタシーの頂へと昇りつめていく。/令子は薄らいでゆく意識のなかで思った。/きっと、世界もこうして終わる。第三次世界大戦なんて起こらない。人間の愚行によって、自らが蒔いた悪い種によって、ドサンと終わるのではなく、こんなふうにへなへなと終わるんだわ……と。」(由布木皓人『新妻と少年』フランス書院、1990、→bk1で購入)。
◆望月六郎監督『皆月』。脚本・荒井晴彦、主演・奥田瑛二と、三者ともベテランで安心して見れるけれど、先の展開が読めて、イマイチもの足りなくもある。奥田瑛二が義理の弟(北村一輝)、新しい恋人(吉本多香美)といっしょに、逃げた女房にケリをつけに会いに行く。で、ラスト、やっと会えた女房が荻野目慶子。『女優・杏子』である。平日昼間の人なら知ってるだろうが、フジの昼ドラである。相変わらず臭い演技で笑えた。でも、さすがロクロー監督、ラストはきちっと締めた。お涙頂戴シーンをさらりと流す上品さ。☆☆☆☆。
◆小池田マヤ『聖☆高校生(1)(2)』→bk1、再読了。恋愛ってのは、互いの互いに対する幻想が交錯しあって、ドロドロになっていく。ショートカットでスレンダー、黒い服が好きで、サドの先輩、とても好みのタイプ。私は黒か紺のタートルネックのセーターを着ている婦女子にグッときます。☆☆☆☆☆。
◆今日はずっと19/Juke『PIECES』(TIME BOMB)を聴いていた。19ったって、なんか年寄りくさい歌ばっか唄ってる男子2人組じゃなくて、大竹伸朗と野本卓司が組んでいたバンド。大竹曰く「風景をテーマにした"ポップス"」。1981年当時にこれを理解した人はほとんどいなかったと思う。いま聴けば、早すぎた音響派だと整理できる。でもそうすると、そこで終わってしまうな。あくまで「音響」って言葉は手がかりにすぎない。それにしても、この音を1981年に「確信」して演奏していたのだ。始めて聴いたとき、「ああ、これは理想の音だ」と思った。滅多にないことだ。
◆「私は現実(芸術における)というものについて、独特の見解をもっています。大多数の人がほとんど幻想的なもの、例外的なものとみなしているものが、わたしにとっては時として現実の真の本質をなしているのです。現実の日常性や、それに対する公式的な見方は、私に言わせると、まだリアリズムではありません。」(ドストエフスキー)
◆川崎市の岡本太郎美術館へ。小田急の向ヶ丘遊園からバス+徒歩で30分くらい。生田緑地の中にある。まず喫茶TAROで腹ごしらえ。普通の喫茶。TAROケーキとかあればいいのに。フローズンのスウィーティーは美味かったが、おろしハンバーグ、不味し。TAROの「芸術はきれいであってはならない」に倣って「料理はおいしくあってはならない」ってことなの? 入口で入場券(700円)を買う。入場すると、まず、おばけ屋敷みたいな雰囲気で、つかみはOK。現物のTAROの絵と彫刻に圧倒される。やっぱ凄いわTARO。展示の仕方も工夫されている。とくに音響が良かった。でもTAROの彫刻は、野外で観たかった。生田緑地内にレプリカ作って置けばいいのに。野外にひとつだけ馬鹿でかいモニュメントがあって、タイトルが「母の塔」。これ。三角錐の塔の中腹に、足だけ接地してななめになった人が何人もいる。これ多分「母なる大地」を意図してるんだろうけど、足だけ接地した不安定な格好から受ける印象は、母親にしがみつけない、いまにも母から落下しそうな去勢の瞬間って感じ。これをTAROとかの子の関係に結び付けるのは強引だろうけれども。特別展は「岡本太郎と戦後写真・日本発見」。TARO、土門拳、濱谷浩、東松照明、内藤正敏、土田ヒロミ、藤原新也、都築響一の「日本」をテーマにした写真を展示。市立美術館の常にならって、ミュージアムショップ、まるでダメ。せめて彫刻のミニュチュアとかあればいいんだが、それもなし。TAROコーヒーとかTAROクリアファイルとか、そんなのいらん。オリジナルポスターもまったくデザインがダメ。図録『多面体・岡本太郎』とポストカードを何枚か購入。とくにこれ、気に入ってしまった。なんともいえない寂しさがある。
◆生田緑地を散策。平日昼間雨降りだけあって、猫しかいない。プラネタリウム5月のプログラムが「さみしい宇宙人(涙)」だったり、なぜか展望台が城だったりして、意味不明。
◆帰り武蔵小杉駅内、バーゲンブックの出店で、キクチヒロノリ『へろみの夏休み』→bk1『げだつマン』→bk1、江川広実『大おんな汁』、900円で。あと鴨沢裕仁『クシー君のピカビアな夜』も500円であったんだが、買わなかった。鴨沢のような作風(乱暴に言えば、タルホ系の幻想文学)は、必ずコアな読者なり編集者なりがいて、絶版になったとしても、どこからか復刊されたりして残る。でも、キクチヒロノリがそーいう風に残るとは思えないので、購入。
◆「いまの学生たちはインスタントラーメンばかり食べて栄養失調になるという。ぼくには信じられない。なんといったって、脂が浮かんでいるじゃないか」/
「――はあ……」(関川夏央『戦中派天才老人・山田風太郎』マガジンハウス、1995、→bk1で購入)
◆bk1のアソシエイト・プログラムでは、例えば、このリンクを辿って誰かがbk1で本を購入したとすると、定価の3%の手数料がオイラに支払われる仕組みになっている。これは一種の「自分の本屋」である。この「自分の本屋」という悩殺コンセプトを前面に出したのが、esbooks。ここでは、簡単に「自分の本屋」を作ることができる。いくつか、「MY本屋」を覗いてみたら、ドナさんの本屋が、趣味のよい品揃えで、コメントもグー。ドナさんファンになりました。おすすめ。
◆上岡龍太郎『上岡龍太郎かく語りき』、大槻ケンヂ『のほほん人間革命』、阿部恭久『恋よりふるい』の書評がbk1に掲載されるが、たいしたこと書いてねーな。それにしても、このbk1の書評って、誰か読むのかね。
◆アイスクリームを作る。夏だ。
◆「チャゲいらねぇんじゃねーか?」っていうネタ、もう禁止。とくにお笑いの若手。
◆「今年は、あたたかな血のめぐるわれら人間の世界では、生殖史上きわめて大きな発見がなされてちょうど五千年目を迎える記念すべき年だ。その発見とはいうまでもない、前戯の発見である」(アイラ・ウォラック『前戯の発見』講談社、1979)。「いうまでもない」って前振りが効いてるなぁ。「前戯」、変換できなかったので単語登録した。どうかと思う。
◆ゴールデンウィーク中のテレビのニュース。空港にて、外国旅行に旅立つ家族連れに、インタビュー。子供にインタビュアーが「ぼうや、どこへ行くの?」と聞いたら、子供、元気一杯に「読売ランド!!」と答えた。母親の顔、ちょっとひきつっていた。
◆ここ数日、セブンイレブンの塩ヤキソバばかり食べている。なぜか毎日食べたくなる。おかしい。なにか混ぜてるんじゃないのか。
◆久々に自転車で横浜駅周辺へ。BGMはThe ピーズ(ビーズに非ず)『どこへも帰らない』。このアルバムで一番好きな曲は「何様ランド」。「仲間ハズレを寂しがる余裕ねー/もう興味ねーにした わがままベスト/流されねー/ヒトの気分はヒトの気分だ/使えないんだ つき合えないんだ/自分自身があてになるんだ/夢の中で夢をみるんだ じゃますんなボケ!」。ピーズのライブに行けなかったことを、一生悔やむのだろう。
◆ハンズ近くのぽんぽん船で、ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』→bk1で購入、岩谷宏『パソコンを疑う』→bk1、庵原高子『姉妹』(この人、全然知らないけど、山川方夫に小説指導を受けたと著者紹介にあったので。それに小沢書店ならそんなにハズレじゃないどろうと。)、松田有子『ギャスパー風の丘』(この人も全然知らないけど、最初の詩のセンテンス、「ウッ/これが菊の落度か/柑橘系の夏の夕暮れに/こめかみが みががれていく」が良かったので。でも「柑橘系の夏の夕暮れに」はちょっと甘いな。「ウッ/これが菊の落度か」、この最初の一行、素晴らしい)→bk1。マンガの森で、流星ひかる『ボクらがここにいる不思議』→bk1、『アワーズ*ガール』no.3。
◆帰って、さっそく『アワーズ*ガール』NO.3、読了。藤原薫は、ちょっとこの世離れした絵が魅力。おがきちか=花丸木リカ「先生のラブ時計」は、学校の屋上系。学校の屋上で、「自分」と「世界」について思考するマンガを言う。例えば、吉田基巳『水と銀』(講談社)の第三話なども、学校の屋上系の名作。オイラが言ってるだけだが。学校の屋上というのは、そういうことを考えさせる場所だ。あと、少女マンガ雑誌で、逆柱いみりが連載というのも凄い。いみり節全開でブラヴォ!! 芳崎せいむ「金魚屋古書店出納帳」、「『トーマの心臓』のラストシーンでユーリクがユーリに渡した本のタイトルは何」、これが分かったら付き合ってあげる、っていうような女子が出てくるの。マンガファンの純粋さ、悪く言えば盲目さというのは、なんだか不思議なものではある。例えば柄谷行人が『反文学論』でとったような態度を、マンガに対してとることはできない。マンガを語るときには、その底にマンガへの絶対的な愛がなければならないとされている。マンガについての文章を読む大多数が、「批評」ではなく、愛の共有を要請している。それはとても健康的な状況なのかもしれない。いまのところ。「一見して『しょうもない』言葉にも幾重にも意味が重層していたり、快楽や苦痛が反転したりする場。無条件の愛着から始まらざるをえない『好き者(ファン)』としての対象との関係を探ることは、こうした振動を自らもブレながらたどらざるをえないということではないだろうか。つまりどうしても『内在的』であらざるをえない、あるいは手軽に『脱構築』できないヤバい場にわれわれ自身、どうにもならずにつなぎとめられ囚われているのだから」(酒井隆史「いくつもの境界」『インパクション』123号)。☆☆☆☆。
◆流星ひかる『ボクらがここにいる不思議』(→bk1)って、いいタイトルだなぁ。どうも流星ひかるのリリカルさとは波長があうなと思っていたら、著者あとがきに、光瀬龍『夕ばえ作戦』、ジャック・フィニィ、梶尾真治らの時間ものが大好きとあって、こりゃ合うはずだよ、オイラの趣味そのまんまだもん。この系統の名作マンガに、松本剛「教科書のタイムマシン」(『すみれの花咲くころ』講談社)、とり・みき「クレープを二度食えば」(『犬家の一族』→bk1)などがある。あとちょっと外れるかもしれないが、坂田靖子「大嵐」(『闇夜の本』朝日ソノラマ、→bk1)とかね。小説なら広瀬正は抜かせない。☆☆☆☆。
◆ところで、松本剛のマンガはもっと評価されるべきだと思う。『別冊ヤンガマガジン』とか『近代麻雀』に載った作品の短編集、出さないのだろうか。売り方を上手くすれば、絶対、売れるはずだ。
◆「生きることについて、人間は実にさまざな考えを抱くものだとおもう。しかしどんな人間も実にナイーブに生きているものだ。それはけっして愚かなことだといい切れない」(辻まこと「山の景観」『あてのない絵はがき』小学館、1995、→bk1で購入)。「できるだけ非能率的とおもわれるやり方で、目標を追求する。アトもどりをしないために」(同「ノートから」『辻まことセレクション2』平凡社、1999、→bk1)。
◆国が本格的にひきこもり対策を打ち出したようだ。調査の結果、ひきこもりの6割以上が成人だと分かって、あわてたんじゃないか。要するに、働いて税金払ってもらわなきゃ困るよってことだろう。
◆久々に大学の図書館で、『映画芸術』を読む。特集、「私の選ぶロマンポルノ」、なんで今頃ロマンポルノなの? 今岡信治が『母娘監禁・牝』について書いていたのを読んで、また観たくなって、斎藤水丸監督『母娘監禁・牝』を観る。もう何回観てるのだろうか。これを観て、前川麻子にいかれない男子がいるだろうか。海岸での少女三人のたわむれ。「死んじゃおっか」。屋上から飛び降りてくる友人を、手を広げて受け止めようとする前川麻子。冷蔵庫の中にうずくまる前川麻子、外では母親が襲われている。ラスト、ジュースを飲む母親の喉の動きの生々しさ。それにしても、この映画の前川麻子は、奇跡のようだ。☆☆☆☆☆。
◆谷岡ヤスジ。おすすめ。
◆爆笑問題太田に向かって「だって田中さんがいないと何もできないんだもん」(『爆笑難問題』におけるYOUの発言)。これは本質を突いている。
◆山本直樹『学校』、読了。「旅立とうとは思わなかったの?」「結局、どこいっても、おんなじだよ。/どこへ行こうと、あるのは、セックスと、鶏の世話だけだ。」「いってみたの?」「そんなの、いかなくても、わかるさ。」(「鶏男」のラスト)。それは確かにそうなんだが、でも……。「叫んでも無駄だと俺に言いながらだがしかしとは言わない君だ」(武井一雄『わが裡なる君へ贈る歌』国文社,1978)。☆☆☆☆。
◆夜中、阿部恭久にファンレターを書く。bk1に上岡龍太郎『上岡龍太郎かく語りき』、大槻ケンヂ『のほほん人間革命』、阿部恭久『恋よりふるい』の書評を投稿。
◆「おれ、39までフリーター、土木作業員だったの。スーってさ、このまま死んでもいいやって思ってた。けどね、なかなか、死ねないもんだよ」(本日放送の『TVタックル』から、篠原勝之の発言)。
◆タッキー主演の『太陽は沈まない』が再放送されている。母親の医療過誤裁判に、息子のタッキーと、弁護士の松雪泰子(いつも同じ表情の演技)が挑むドラマ。タッキーはお好み焼き屋の息子。裁判相手の医者が、店の前で、中にいるタッキーに「謝罪させてください。どうかお線香の一本、あげさせてください」と扉を叩く。タッキー、開けない。すると商店街の人たちが「開けてやんなよ。先生も悪気はないって言ってるよ。あやまってんだからさ」云々と声をかけるのだ。それでもタッキーは無視する。闘うってのはそういうことなんだ、タッキーは正しいよ。闘いの場で、簡単に敵の気持ちを理解しちゃいけない。しかし商店街の人たちは、次の日から、タッキーをいやらしく非難するのだ、井戸端会議とかで。いやん。タッキー、がんばれ。
◆岸根公園近くの古本ショップで、高野宮子『愛の人』、さそうあきら『神童(2)(4)』、石田敦子『いばら姫のおやつ』、『スピリッツ』6/1増刊号、江戸川乱歩『吸血鬼』、井手孫六『峠の軍談師』、稲垣達郎『角鹿び蟹』、山内義雄『遠くにありて』。ほとんど百円。講談社の文芸文庫、百円なら買っちゃうなー。
◆『ビッグコミックスピリッツ』6/1増刊号、読了。一番おどろいたのは新人の読切、小池美枝「カッパのお宝」。いじめられっ子の少年に、あるとき少女が声をかけて、そこから二人の友情が……、っていうありふれた出だしなんだが、そのラストの大胆さ!! これは久々にびっくりした。編集の人、止めなかったんか。偉い。榎本ナリコ「歌集」は、宇田多ヒカルの「Automatic」をモチーフにしているが、まぁ、いつもと同じく、オヤジと女子高生の自意識過剰もの。この人、絶対、同人誌の作品のほうが良い。男性誌の榎本ナリコに納得いかないのは、結局それが、癒し系になっちゃってるからだ、オヤジのための。桐島いつみ「まいったカッパは見てわかる」。これ前はたしか『コーラス』でやってたけど、『スピリッツ』に載ってるほうが、しっくりくる感じ。吉田戦車「山田シリーズ」、殴られて変形したカワウソの顔が笑える。『伝染るんです。』では、ここまで表情をくずしたカワウソは見られなかったと思う。池部ハナ子「生まれ出ずる君」は、「男の子に、生まれてきてくれて/私とつながってくれてありがとう」という科白、いいなぁ。☆☆☆☆。
◆さそうあきら『神童』、やっと全巻揃えられたので、一気に読了。天才ピアノ少女の物語。こりゃ、凄い。今のところ、さそうあきらの最高傑作。マンガ読んでて、ドキドキしたのは久々です。☆☆☆☆☆。
◆高野宮子『愛の人』、読了。恋愛短編集。「運命の女」、しがらみに縛られず、自らの欲望をはっきりと自覚している人の強さ。「愛の人」、「おれは、こんな空を見てると、どこかの誰かのために、何でもしてやりたいと、思ってしまう/遠い国の、会ったこともない誰かや、見知らぬ名もない、ひとたちのために/何でも 何だって、やれるような、気がしちゃう」。そんな日もある。☆☆☆☆。
◆「貨幣が、広義には強制代償の体系であることは言を俟たない。強制を最終的に支えるものは暴力である。この無コミュニケーションの空間において、強制を最終的に排除しうるものも暴力だ。言い換えると、暴力団、ギャングという装置を必要としない貨幣経済社会は現実にはありえない。ちょっと"詩的"に言うならば、貨幣の本質が暴力であるから、暴力団は貨幣の、姿を変えた延長にすぎない。」(岩谷宏『ラジカルなコンピュータ』ジャストシステム、1995 [bk1で買う] )。
◆ゴールデンウイークはずっとK宅で眠って終わってしまった。ここ数日で買った本は、桂文楽『あばらかべっそん』、上岡龍太郎『上岡龍太郎かく語りき』、井坂洋子『ことばはホウキ星』、宮沢章夫『わからなくなってきました』、大槻ケンヂ『のほほん雑記帖』、高瀬彼方『魔女たちの邂逅』、杉田聡『野蛮なクルマ社会』、花輪和一『天水(1)』、吾妻ひでお『夜の魚』、岡田あーみん『お父さんは心配性(6)』、いしいひさいち『ドーナッツブックス』を10冊ほど。花輪和一以外全て百円かそれ以下。
◆リブロ、児童書売り場近くの飲食店で、川原亜矢子サイン会を横目で見つつ、ビール。でも、この店のバイトの女子のほうが、川原亜矢子より良い。
◆池袋タワーレコードにて、『INTERNATIONAL AVANT-GARDE CONFERENCE vol.3』を半額セールで。メトロトロンのコンピレーション。電車でざっと聴いただけだが、ザボンドボン、遊星ミンツあたり、日向ポップ系で良い。
◆「自民党の森山真弓総務会副会長は27日夜、東京都内で開かれたシンポジウムで講演し、昨年11月に施行された18歳未満の児童ポルノのインターネット公開などを禁止する「児童ポルノ・児童買春処罰法」の改正問題について言及し、現在、規制対象となっていない雑誌、ビデオなどの「単純所持」行為についても禁止する法律改正を求めていく考えを明らかにした。森山氏は、議員立法で成立した同法の制定で中心的な役割を果たしたメンバーの1人。森山氏はこの日、日本ユニセフ協会などが主催したシンポジウム「犯罪です、子ども買春」で基調講演した。この中で、「この法律はもちろん完ぺきではない。その中でも児童ポルノの『単純所持』が全く触れられていないのは大きな問題。2年後の見直しでは(規制対象に)加えていく努力をしていきたい」と語った。森山氏は超党派の「児童買春問題プロジェクトチーム」や「児童買春問題勉強会」の座長を務めた。これらのグループが作成した原案では処罰対象として単純所持行為とともに絵やマンガなども含まれていたが、「規制内容が強すぎる」などの声が出て最終案では盛り込まれず、見送られた経緯がある」(この記事、どっからひっぱってきたか忘れてしまった)。いくらなんでも『単純所持』の処罰を法に記すのは危険すぎる。ベンヤミン曰く「警察暴力は法を措定する――というのは、その特徴的な機能は法律の公布ではないが、法的な効力をもつと主張するあらゆる命令の発動なのだから。また警察暴力は法を維持する――というのは、法的目的の御用をつとめるから。……。だから警察は、明瞭な法的局面が存在しない無数のケースに『安全のために』介入して、生活の隅々までを法令によって規制し、なんらかの法的目的との関係をつきながら、血なまぐさい厄介者よろしく市民につきまとったり、あるいは、もっぱら市民を監視したりする。」(野村修訳『暴力批判論』晶文社、1969)。
◆今日の昼はマックだった。CMでおいしそうと思って、実際にマックを食べる。でも、マックを食ったあとって、「なんだか不毛なものを食べてしまった」という気になりませんか?