◆アニメ絵はそれが絵そのものであり、自己言及性を持つがゆえに余剰快楽対象aを生み出す、それが欲望の源である。
◆要町ブックオフ。TONO『ナバナバパラダイス犬童医院繁盛記(1)(2)』『ナバナバパラダイス博士の魚たち』、藤木凛・坂本一水『SUZAKU(1)』、榎ノ本瞳『セシリア・ドアーズ』、ロビン西『ポエヤン』、平嶋製作所『青春ボタン寺かけわすれ』、松下紺之助『青春幻燈館』、塩川桐子『ふしあな』、氷室芹夏『ぼくらのプラトニックラブ(1)』、以上マンガ一冊百円。酒井直樹『死産される日本語・日本人』、岩田宏『踊ろうぜ』、小沢昭一『もうひと花』、岩松了『テレビ・デイズ』、大月隆寛『たてがみ三度笠』、藤本和子『ブルースだってただの唄』、スティーブン・ピンカー『言語を生み出す本能(上)』、『ORGAN#5旋回する権力』、梁木靖弘『渚のモダニズム』、石川准・長瀬修編『障害学への招待』、橋本治『ぬえの名前』、『ニュー・フェミニズム・レビュー(5)』、『障害者雇用ガイドブック平成11年度版』、萱野葵『ダンボールハウスガール』、ほぼ全冊百円。要町から中板橋までこれだけの本を持って歩く。肩が抜けるかと。
◆夕飯、鶏肉ニンニク炒め。
◆我々は牛丼を喰っているのではない。牛丼という名の孤独と絶望を喰っているのだ。座敷の牛丼屋はない。すなわち一人で食えセニョールセニョリータ。
◆松岡修造、外食時、店に入るとまず店内を一周歩きまわる。
◆テレ東アニメ『地球少女アルジェナ』、初めて観る、ちょっと気になる。
◆テレ東深夜『クイズ爆笑難問題』、爆笑問題が一番リラックスしていておもしろい。
◆男のオナニーで飛び出した精子の矛先は「母親」である。
◆調理器具百円均一セール。餃子作り器を買ってしまう。使わないだろう。
◆池袋リブロで、
石川准のタイトル忘れた本、確か『人はなぜ存在証明したがるのか』座り読みでほぼ読了。存在証明は闘争。『エヴァ』テレビ版のラスト「僕は僕でいいんだ」は、「僕は僕でなくていいんだ」或いは「僕は僕じゃないからいいんだ」が正しい? 自己の中の他者=デリダ、スピヴァク。☆☆☆☆。
◆丹生谷貴志のタイトル忘れたけど、確か『家事と城壁』? ほぼ読了。ドゥルーズ曰く「『男』であることを恥じて書くのが文学である」。☆☆☆☆。
◆中板橋商店街唯一のレンタル屋で、the brilliant green『TERRA2001』、GO!GO!7188『蛇足歩行』、カスケード『ピアザ』、AJICO『深緑』、スーパーカー『フューチュラマ』借りる。
◆スパーカー、みんな誉めるがどこが良いのか不明。
◆カスケードは「SEXY SEXY」で、歌謡曲調ロック? いやGS調ロック? というスタイルを確立させた。とくにその詩が素晴らしい。「Yellow Yello fire 恋をして 気分はHigh High High 生まれ変わるはずさきっと裸の女神ビーナス ソレソレ SolitudeなBaby 気分はSky High High 感じ合ってサヨナラするまで燃え上がれ」(「Yellow Yellow Fire」)。「Yellow Yellow」が「エロエロ」としか聞こえないところがいい。スタイルと無意味。マンガでも小説でもこれ理想。
◆the brilliant green、「川瀬智子」という名の響き。「川瀬智子」と比べたら「広末涼子」でさえ世俗的に聞こえてしまう。
◆シュガーベイブ「すてきなメロディ」のピアノとトイピアノを重ねた音色、あるいはthe brilliant green「angel song」の冒頭の古ぼけたラジオの音色。
◆近所を二人で散歩。サイクル屋でビン、カップ等買う。
◆「GEO」で恩田陸『光の帝国』200円。
◆山岸涼子『鬼』『押し入れ』『天人唐草』『黒鳥』読了。「天人唐草」ほど鮮やかに家父長制を描いたマンガは他にない。☆☆☆☆。
◆南Q太『タラチネ』読了。山岸涼子と南Q太はある部分で対立するのかもしれない
。しかしそれを対立と読んではいけないだろう。☆☆☆。
◆斎藤学・冨田香里『なぜ、私たちの哀しみは「食」に向かうのか』読了。「ヨーロッパの悪しき習慣として性差別主義と階級主義、……それが形で表現されているのが拒食症の人の身体で、あれは中国の女性たちが強いられた纏足よりももっとひどい。自発的な「纏足」です。……女性への規制はどういう形で強められているかというと、さすがに昔のように女らしくないといってひっぱたくという露骨な形では現れていない。女たちそのもの心の中に輪っかをはめて、自分自身を規制の中に閉じ込めるよう内面化している」(55頁)。
「結局自分のなかにセラピストを飼い、育てるしかない」(75頁)。
「(父親は)正邪を判断基準にしないで、先輩に迷惑をかけないとか世間がどう思うかで動いている。……で、一瞬の家族のなごみみたいなものを大切にする」「日本の父は……自分も年取った子どものひとりになって「ママ、パンツどこ」「ゴハンまだ」って」(81頁)。
「セラピーっていうのはね、何かにもの狂っている人たちに「あんた、そんなに興奮しなくていいよって。たいしたこと起こってるわけじゃないんだから」と言ってあげること、常識の提示者になってあげることなんだ」(92頁)。
「(拒食症の人たちは)女性の心と少年の体が欲しいっていうんですよ。だけど、本音は少年の体じゃなかろうと思う。子どもがえりして赤ちゃんの体、可能であれば胎児化を望んでいると思う」(93頁)。
「今まで自分が『こうでなくちゃいけない』と思っていたことが崩れ始めて、何か、自分が頼れるような拠り所が欲しいんだけど、ぴったりくるものがない。結局、自分の中でいろいろ考えていくしかないのかな、と思うにいたるんです」
「(自分の中でルールを設定していくこと)をほとんどの人が回避していて、私は、本当の意味での去勢っていうのは、それだと思うんですよ」(109頁)。
「女のこと性の問題について言えば、思春期以降、自分の中に起こってくる説明しがたいものにとらわれていくと、今までいい子でいるために努力してきたことといろんな矛盾が生じてくる。これを統合しきれなくなると、無性的な時代に戻りたくなる。このへんに成熟拒否の問題があるだろうと思う」(133頁)。
「過食症者が食べるっていう行動は明らかにこれはファンタジーなんでよね。満たされる、満足するっていうことの追求がそこで行われるわけだから。……出すこと自体が例えば怒りの吐き出しみたいな、別の意味を持ってるわけで。……食行為と思うから、一見、それに似ているんだけれども、本来の食べるという行為そのものじゃない」(139頁)。
「売春歴のある女性のほうが明らかに過酷な条件が多い……売春を経験した人の場合は特にひどいトラウマを受けている……親との関係の中で淋しいとか、自分の話し相手が欲しいとか、そういう気持ちを持ちやすい人に違いありません」(153頁)。相田みつを的なイデオローギーが女性を売春へと導いているかも。
「ショッピングはアディクション(依存)としては弱い……そんなに深刻な人格障害に陥った人はいない。臆病さ、小心な人というのがショッピング依存になる……軽いアディクションは今の世間の人はたいてい持っています……みんな、人に対して「いい人」って思われたいっていう欲求が強いから、エコロジーの運動がいろいろあるじゃないですか、ああいうのをするとか、地雷撲滅で、ちょっとした寄付でもすれば、あるいは署名をもらいに歩くなんていうことをやるだけで、けっこう(アディクションが)満たされてる」(160頁)。
「私が一応ゴールとしているのは過食というのはひとつの自分の個性だと思って、あってもなくてもいいやと、そんなことに関わってられないやと思えるところまでもっていくこと」「『いまお腹が空いてるのよ』という言葉を『私は人生が空虚なのよ』っていう言葉に置き換えること……頭で分かったつもりになるのではなくて、それが体で分かること。でそれを自分が感じている不安とか、人間関係上の挫折感とか、そういうものに、言葉として置き換えるだけでも違う……不幸や淋しさが全くない状態なんてない……そんな涅槃みたいなことを目標にされても困るんだな。でも私のクリニックに通っていらっしゃるお嬢さんたちは、みんな、そう思っているんだろうね。すごい幸せな状態を獲得したいみたいなことをね」(175頁)。
「過食嘔吐がなくなったら、すべてが上手く行くような気がしていた(笑)。いちおう世間からみ見て、よしとされている状態にあったけれども何かが苦しい。
それは普通の苦しさなんで、誰でも仕事や人間関係とか、いろいろなことでの大変さが、その人なりにあるけれども、それに目をつむっていて、その苦しさを一個所に置き換えたというか、食べたり、吐いたりすることにすり替えていたんですね」(176頁)。「過食症のときは、相対化していたんです。……でもあまり悩みというのは相対的に考えていけないなと思うようになりました(笑)」(177頁)。
「自分を受け入れる他者、実はそれは自分なんですよ」(200頁)。
「子どもの頃の自己表現が、自己表現ではなくて、まるで他己表現になっていたわけです……」「(回復者は)やらなくちゃいけない、当然やるべきことというのがぐらつく……イヤなことはイヤだと思うらしくてね。それから親に悪いというのがなくなりますね。多少和らぐものだから、親もまだ稼いでいるんだからいいんだと、……そういうのが合わさって失業者ができるんですね(笑)」「高度成長期のモデルを自分に押し付けてきたわけですよね。それを私なんかもそのままやろうとしたんだけれども」(213頁)。
つまり拒食や過食は資本主義体制に対する反抗でもある? 「まわりの木たちに「私は生きてていいのよね」といって、で、木々に「いいのよ」っていってもらったような体験をしているんですね。この人は17階から飛び降りて、まだ生きてる人なんだけれども……これは全く偶然なんですが、木々にぶつかって、だんだん木の枝から枝へとぶつかり落ちていったんです。で、下が土だったんです。四十代はじめの主婦ですが、この人は、もう大丈夫なんじゃないですか。木々が生きてていいというんだから(笑)」(226頁)。
「いろんな薬で一発で解決ということは諦めて、それから、食べてごまかすということも諦めて、食べたいということを喋ると。なぜ食べたくなったかということを喋るということを地道にやってくほうが効果があると思う。薬なんてものは、脳内にいっぱいあふれてるわけですからね」(250頁)。
「B子(某国立大学の研究室に属する研究者)は今、前の職場でもその前の職場でも同じような目(執拗なセクハラ)にあってきた。ここで以前と同じような辞め方をして泣き寝入りをしてしまえば、彼女は自分への評価をますます下げるだろう。『いじめられるのが当然の自分』みたいなものを抱えたまま次の職場へ移ったとしても、また同じ目にあうだけのことである。彼女は今、職場の男たちに対して『冷静に』怒らなければならない」(253頁)。☆☆☆☆。
◆「詩は言葉が現れるひとつの姿なのですから、また、従ってその本質からして対話的なものなのですから、詩は一つの投壜通信であるのかもしれません。どこかに、どこかの岸に、ひょっとすれば心の岸に打ち寄せられるかもしれないという信念――必ずしもいつも確かな希望を持ってではありませんが――のもとに、波に委ねられる投壜通信です。詩は、このようなありかたにおいてもまた、途上にあるのです。すまり詩は何かに向かって進んでいるのです。何に向かってでしょう。開かれている何か、占有しうる何か、ひょっとすれば語りかける『あなた』。語りかけうる現実にむかってです」(パウル・ツェラン)。
◆大山の古本屋で、斎藤学・冨田香里『なぜ、私たちの哀しみは「食」に向かうのか』700円、『男と女の時空6巻』2000円、武藤安隆『催眠術完全マニュアル』、ジル・ドゥルーズ『襞』1500円、『バディ』2000年11月号、400円。CD、吉田知加『こうぶつ』100円。
◆小杉武久『音楽のピクニック』再読了。即興についての詩的思索の本。「作曲とは文字通り曲がったものを作ることだ」。表現者の使命は、壊すこと、驚かせること。制度に反抗する前衛がいつしか制度になってしまう。現在のブレーズの周りの状況。『ヘテロダイン』を聴くと、なぜか『風の谷のナウシカ』を思い出す。風を音楽にできるのは小杉武久以外にいないだろう。☆☆☆☆。
◆夕食、バーミヤン。バーミヤン階層の家族というのがあるな。父親ブルーカラー、親と同居。姑迫力あり、対して奥さんおとなしめ。
◆内山理名主演ドラマ「S.O.S」。いつもながら見事な野島伸二、千住明のコンビ。フェリーニ、ニーノ・ロータを思わせる。嘘だが。
◆『思想』2000年第1号通巻907号。栗原彬「表象の政治」。「他者による自己の承認は、他者が自己の中の他者を承認することと考えるべき」(8頁)。
「アイデンティフィケーションは、普通『自己同定』と訳されますが、私は『他者同定』だろうと思っています。アイデンティフィケーションがなければアイデンティティはありえない。他者ともっとも鋭く向き合うところ、他者の受容の仕方が決まってくるところがアイデンティフィケーションというメカニズムで、それがあって初めてアイデンティティが出てくる。私の考えるアイデンティティの再定義は、第一が多元的な自己の相対的な一貫性、第二が他者による自己の中の他者の承認、第三に他者同定。一方で他者を操作して取り入れて飲み込む。これがないとアイデンティフィケーションそれ自体否定しなければならない。同時に、他者を非決定に置く。この二つが、二重性になっているのです。従って、アイデンティティは、他者を領有する、世界を領有していくという方向にも働くし、世界との共生の方向にも働くのです」
「他者受容のポイントは、他者を支配したり操作したりしないで、その存在を丸ごと受容するということです」(9頁)。つまりこれは、「私はいまだかつて嫌な人に会ったことがない」と言う淀川長治の態度――丹生谷貴志によれば、彼はその態度を映画から学んだ――だろうか。しかしこれはよっぽど強い人、冷たい人じゃないと無理じゃないか。
「(両親が生活保護を受けていて、それを理由に「精神薄弱」という「診断」のもと優生保護審査会の決定によって、不妊手術を受けさせられた)彼女の痛みが「痛み」として認知されなかったひとつの理由は、優生手術(不妊手術)が、露骨な差別や迫害や刑罰としてではなく、「医療」としてなされたことにあると思います。医療というのは、それが行う暴力を中性化して、暴力であることを見えなくさせるという面が多分にあります」(12頁)。
「私のような人間が被害者の方々の痛みを「代弁(representation)」するなら、それはまさに「表象(representation)」の政治そのものだという言うほかはない」(15頁)。こういう場合、representationは「表象」ではなく「代理」とでも訳すべき。様々なところで使われるこの「表象」という語がどれほど文をわかりにくくしているか。
「例えば人間は、端的には食欲とか性欲などの欲求を満たすという行為としてあらわれてくる根源的な暴力と切り離すことができないことが分かる。しかし、それを過剰なものにしないという、一種の内的な義務を自分で感じる。それがつまりガンジーの非暴力。ヒンサー(暴力)に対するアヒンサー(非暴力)。ヒンサー、あるいはレヴィナスが言う『享受』の働きを止めることはできません。生きるための条件ですから。にもかかわらず、生きる喜びの中に、他者性に発する、他者を非決定のままに、その居場所に置きたいという側面もある」(17頁)。つまりガンジーの非暴力は、資本主義=過剰さに対するものだった?
石川准「感情管理社会の感情言説」。「19世紀の労働者は『肉体』を酷使されたが、対人サービス労働に従事する今日の労働者は『心』を酷使されている。現代とは感情が商品化された社会であり……」(41頁)。商品化されているにも関わらず、マックのように「スマイル0円」という形で価値が無化されているわけだ。
「企業は、日常的には適切に感情を体験しそれを表現できる人々、したがって有能な感情労働者になる資質と能力に恵まれた人々、つまり『気立ての良い』『健康な』女性(男性)を採用したうえで、彼女ら(彼ら)の感情規則と感情管理能力を企業のためにあますところなく活用すればよいのだが、カウンセリングにとってのクライアントは、他者によって、慣習的社会の感情規則から逸脱するとされた人々、あるいは自分の感情の不適切さを持てあまし、自分の否定感情に苦しむ人々であり、カウンセリングは彼らの感情体験のあり方やそれへの評価の仕方、それらへの対処の仕方を、彼らが所属している社会、組織、あるいは彼らが取り結んでいる家族などの関係にとって望ましい方向に変容させる任務を負っている」(47頁)。企業とカウンセリングでは、その統制の相手が違うということか。後者の相手は否定感情を持っている。前者の相手は適切な感情を持っている。しかし、否定感情が適切に治療されたとしても、資本主義の中で生きざるを得ないなら、結局企業によって感情管理されてしまうのではないか。
「人は自己の振る舞いや身体を、劣るもの、不適切なもの、見苦しいものと感じさせられると、当惑し羞恥し萎縮して、自発的に場の秩序の再生に協力する。それどころか、当惑を予期し、傷つくことを恐れ、他人への迷惑を懸念すると、人はそうした場への参加を進んで自粛する。場における当惑と自発的不参加によって権力の作動は不可視のものとなる。慣習的感情文化は、感情を表すことで誰かの「神経」が傷つくなら、「感情」を表出してはならないとする感情規則によって当惑感情を増幅する。他者を思いやる文化だからというのではない。自分の「感情」を犠牲にして他人の「神経」を守ろうとする規則は、他人の「感情」を犠牲にして自分の「神経」を守ろうとする規則であり、ひいては場の儀式性や、出来事のルーティーン性、つまり社会の「神経」を守ろうとする規則に他ならない。それに対抗する脱慣習的感情文化は、「神経」より「感情」を優先する感情規則、当惑感情から人々を自由にする感情規則の構築を試みる」(52頁)。つまり、よく言われる「人に迷惑をかけてはならない」というイデオロギーは、まったく欺瞞であるということだ。
山本おさむ「『ろう文化宣言』を読んで」。「同宣言は、(言語としての手話を学ぶだけでなく、ろう者の社会参加の権利として、公的な手話通訳の派遣制度を求めていくという障害者運動の)理念と現状にはまったく触れず、言語教授の問題としてのみ手話を論じているように見受けられる。たとえば、盲ろう者の指点字通訳を言語の問題としてのみ論じる人がいるだろうか。それは、まず彼らの社会参加の権利として論じ、普及されるべきものである」(66頁)。
「私は『ろう文化宣言』が行った、手話が言語であり、ろう者が言語的少数者という側面を強く持っているとの主張には何の異論もないが、『障害者』ではないと主張することは勇み足でないかと思う。そもそも『我々は障害者ではない』と言うとき、そう言っている当人の中には『障害者』という概念が存在している。その『我々はそうではない』と否定する『障害者』とはいったいどういう存在なのか、権力がこれまで吹聴してきた『障害者』とは違うのだろうか、それとも同じなのだろうか」(68頁)。
N・シェッパー=ヒューズ、D・ホフマン「ブラジルのアパルトヘイト〜ストリート・チルドレンの都市空間での居場所を求める闘い」。「マリー・ダグラスによる『汚れ』の定義、ごく普通の土が、違う場所にある状態を『汚れ』をいうことが、ここでは思い浮かぶ。地面にある限り土はクリーンであり、庭となる可能性を秘めている。ところが同じ土が、指の爪の下に付いていると汚いものと見られ、病気が感染する可能性を秘めているとされる。同じように、貧しい子どもが誰にも見守られずファヴェーラの細道を走ったり、さとうきび畑で遊んでいる限り、彼は単なる『キッド』に過ぎない。ところがその同じ子どもが、都市のメインストリートや広場に移動すると、恐ろしい存在、もしくは社会問題として見られるのである」(76頁)。「ストリート・キッドである9歳のシコ君に、母親がまだ彼を愛しているか聞いたとき、彼は迷わず『だって母さんなんだから、僕のことを愛さなければならない!』と答えた」(81頁)。
「『ではあなたはこの世界についてどう思ってる?』と我々は聞いた。『とても悪い臭いがする』と彼は答えた。『何もいいことはないの?』と聞き返すと、『何もない。悪者にとってふさわしいだけ。世界には何の意味もない』」(88頁)。この世界を見る冷静で冷徹なストリート・チルドレンの眼差し!!
「食べ物と行為の代価としてセックスを提供することは、多くのストリート・チルドレンにとって生存戦略であり……農村に近い地域では、家事の奴隷状態から脱出する方法でもある。このような地域ではいまだに家長やその息子たちが、その家で雇っている召し使いの若い身体を自由自在に操る権利を持っているとされているので、そこから脱出する手段として売春婦になることがある。『私が初めて身体を売った瞬間は、初めてこの身体が本当に私のものだと感じた瞬間でもあった』」(88頁)。身体を売ることで自分の身体を獲得するという、まったく不当な状況は、日本でも全く同じだろう。そのような一方的な権力関係への抵抗として、彼女たちの一部は過食症や拒食症になるだろう。
細見和之「夢のリミット?〜永山則夫と獄中・獄外のアイデンティティを巡って」。「(二段組みの見開きページを埋める和服の生地銘柄の羅列は、)着物のカタログないしガイドブックを見ながら、永山がそれをそなまま書き移したもの……このように無味乾燥な記述のうちに、永山の『書く悦び』が感じられる……それは、文字どおり「書くこと」「書き移すこと」からくる悦びなのである。しかも書くこと、書き移すことこそは、およそ市民的自由を奪われた獄中生活における唯一の『所有』の形態でもあるのだ。……それはまた、永山が最後まで固執し続けた、あるべき社会主義・共産主義と両立しうる『所有』とさえ言えるだろう」(98頁)。
浅野千恵「『痛み』と『暴力』の関係学試論」。浅野千恵ほど真摯でラディカルなフェミニストはいない。唯一ひっかかったのは結行、「これら(『あなたたち(性風俗産業で働く女性)』に対する性暴力)はすべて『わたしたち』の問題である。『わたしたち』ひとりひとりがこの問題の当事者である。暴力を社会的に再生産させ続けているのは『わたしたち』であり、それを無視し続けているもまた『わたしたち』であり、この状態を変えていけるのもまた『わたしたち』である」(123頁)。これは全く正しいのだが、少し性急すぎるかもしれない。これほど丁寧な分析を突きつけられても、なお依然として『わたしたち』は『あなたたち』とは違うと言うだろう。『あなたたち(「売春婦」)』を対照化することによって、『わたしたち』側は集団の均質性を得るという
『わたしたち』のアイデンティフィケーションの問題。そこからくるディスコミュニケーション。均質制は生産性のためにある。効率のよい生産を得るために均質な人間が必要であるのだとすれば、つまるところそれは資本主義の問題でもある。はじめから『わたしたち』『あなたたち』という二元論にしないか、あるいは、『わたしたち』と『あなたたちは』は「違う」という点で同じだという戦法にする? まったく自分でも言おうとしていることがはっきりわからんが。☆☆☆☆。
◆岩田宏『ぬるい風』(草思社1985)読了。「寺島さん、夫婦和合の秘訣を教えてあげよう。なに、簡単なことです。終わった後、すぐ抜いてはいけない。抜かずにじっとしている」(67頁)。しかしこれが難しい。「第三者との交流がない限り、不平不満は決して発生しない」(149頁)。「もし嘘にいくつもの段階があるとすれば、このようなごまかしはどのあたりの段階に属するのだろう、と哲は思った。これは嘘ではないが、真実の全てでもない。ごく少量の真実は、言外の多量の嘘にくるまれている。ねばつく嘘の固まりの中央に封じ込められた真実は、ひょっとすると、真実ではない、嘘でもない、何か全然別のものに変質しているのではないだろうか」(176頁)。「『男はみんな狼』『女はみんなこうしたもの』? 馬鹿なことを。そんなふうにまとめたところで、ちっぽけな処世術の一項目となる以外に一体何の役に立つというのだ。たぶん哲が我慢ならないのは、比較に伴ないがちな価値判断ということだったのだろう。世間の日常では、純粋な比較はめったに行われない。比較の後では、いつもどちらかを取り、どちらかを捨てる。そのための比較なのである」(190頁)。確か同じようなことをスチュアート・ホールも言っている。警戒しなくてはならないのは、差異そのものでなく、差異に価値を纏わせることなのだということを。「このひと、女に逢いに行くのよ。そうでしょ? そうなんでしょ? はっきりおっしゃいよ!」……「こいつは、いつもこうなのよ!」……「いつもこうやって女に逢いに……こいつは……こいつは」(212頁)。「こいつは」という科白の迫力。「単に新しい言葉を覚えることと、その言葉を自ら用いることの間には、どうしても埋めなければならない一定の隔たりがある」(296頁)。「戦争の始まりには突如として一つの地名、昨日までは馴染みのなかった地名が浮上する」(298頁)。一人の男と二人の女の青春小説。この心地よさ。だがこれは今までの文学がほぼそうだったように、「男」にとっての心地よさかもしれない。☆☆☆。
同じ作者なら『九』のほうが詩的。松下千里は岩田宏論でこう言っている。「どのような詩人にとっても、青春の明晰、処女詩集の明晰と呼びうるものがあるとするなら、それはこの生活への忌避のことに過ぎない」。(「手になる唄」『生成する「非在」』詩学社、1989)
◆都民と語る会における石原慎太郎のファシストっぷりにはいまさらながら驚く。自分と異なる意見は全く認めない。
◆さんまの番組にて、「マフラー編んでるの?」「そう。彼にあげるんだ」「その編み込んであるMって彼のイニシャル?」「ううん、違うよ。マフラーのM」。笑った。
◆6PチーズのCM、右側のちょっとビョーク似の子、気になる。
◆昨日に引き続きアーヴィング『未亡人の一年(上)』、よしもとよしとものマンガを思い起こす、とくに「あひるの子のブルース」。
◆夕餉の買い物、かぶ、エリンギ。
◆二日掛かりで
アーヴィング『未亡人の一年(上)(下)』読了。「『勇気があるってどういう意味?』ルースはたずねた。/『泣かないってこと』エディは言った。/『でもちょっと泣いたもん』ルースは指摘した。/『ちょっとならいいんだ』エディは言った。『勇気があるっていうのは、起こったことを受け入れるってこと――なんとかがんばって乗りこえるってことだよ』」(上210頁)、「『……車をわきに寄せられないこともある――止まれなくて、どうにか前に進み続けなきゃならないこともある』」(下20頁)。これら相田みつを的な陳腐さは、アーヴィングの文体だからこそ成立している。「しかし、恋に落ちることと、恋に落ちたと想像することの違いが誰にわかるだろう? 本当に恋に落ちることでさえ想像の産物なのに」(下301頁)。オナニー、年上の女性=母親。純愛? しかし長い。とくに下巻がだるい。あらすじを読むのだけではダメなのか。もしダメだというならその理由は何か。細部の描写に宿るリアリティか。しかしそれはだれにとってのリアリティなのか。それがリアルだと決めるのは誰なのか。アーヴィングが「物語」の力をあまりに確信しているのにひっかかかる。小松左京は言っている。「近代小説の形式ができる前に、純文学が小説だと言う前に、そういうさまざまな形式の文芸というものを通じていろんなことを近世の芸術家と庶民はしてきたと。最後に、僕に残されているのは、一体全体「ストーリー」という叙述形式の根拠が宇宙にあるかということが最後の問題なんだ」(『SFバカ本たいやき篇プラス』)。☆☆☆。
◆朝食、弁当作る。ダーリン送り出し、バルトーク『ミクロコスモス』。三上寛『女優』聴きつつ寝、「さよならさよなら僕の運で」。
◆洗濯。
◆「スタジオパーク」ゲスト岡本綾の溌剌さ堪能す。
◆パトリック・ドゥヴィル『花火』読了、☆☆☆。
◆アーヴィング『未亡人の一年(上)』にとりかかる。
◆夕餉の買物。肉じゃが。
◆板橋中央図書館で、『現代思想28-6スペクタル社会』、『思想』no.907、岩田宏『ぬるい風』、アーヴィング『未亡人の一年(下)』。
◆桜庭の出ているフロムエーのCM、クレイジーキャッツの『黙って俺についてこい』の替え歌。「夢のある奴ぁオレんとこへこい」。フリーター=夢追人というのは、企業が安い労働力を動員するための悪質なイデオロギーでしかない。騙されてはいけない。
◆中板商店街の古本屋にて、松本明重・編『日共リンチ殺人事件』150円、幸田文『月の塵』600円、阿佐田哲也『ギャンブル人生論』『雀鬼五十番勝負』『麻雀狂時代』『雀鬼くずれ』『ギャンブル党狼派』、チャンドラー『高い窓』、三冊百円。
◆矢部史郎+山の手緑『無産階級神髄』読了。、素晴らしい。「階級社会ではなく身分社会」。『暴力サンダル』を買ったのは、たしか数年前の新宿ホームレス祭。まさかこんなに早く一冊にまとまって出版されるとは思わなんだ。☆☆☆☆☆。
◆ヤンマガ、古谷実の新連載、期待大。『エリートヤンキー三郎』、目離せず。
◆志ん生「替り目」「火焔太鼓」「鶴亀」聴く。女房のことを喩えて曰く「三万年前のとかげみたいな顔」。
◆夕飯、大根煮物。
◆二人で池袋散策。メトロポリタンプラザのキディランドにて、チョビットのマグカップ、ピングーエッグ購入。
◆垣根越しに花をもってこちらをのぞいているチョビット。壁越しの呼びかけ、これ重要。ピングーエッグの中は絵本。草よりは良かった。
◆淳久堂で矢部史郎+山の手緑『無産階級神髄』購入。タワーレコード。インディーズ半額フェア、クジラ『サーカス』、『ブラックステージ』、ロイヤル・スクイージット『アリア』。岡野弘幹『19871990』、『music from six continents』、は五百円セール。岡野弘幹の『19871990』をこんなとこで五百円で買えるとは思わなくて驚き。倉橋ヨエコ『礼』をジャケ買い。
◆『アンアン』連載、ブリグリ、川瀬智子のエッセイがおもしろい。恋愛相談と銘打ちながら一向に恋愛相談が始まらない。トミー、このまま爆走か。
◆95年のSMM調査の分析本のなかでは、
佐藤俊樹『不平等社会日本』が新書で読みやすく刺激的。総中流社会という幻想が打ち砕かれる。どこかで平井玄が書いてたが、年収二百万以下の者でさえ、自らを中流だと思っているらしい。そこまで中流幻想が浸透している。プロレタリア階級(という意識)は消えて、結局残ったのはブルジョアだけだという世界。「――なるほど。オレたちは闇の中でうずくまっているのだったな」(殿山泰司『JAMJAM日記』)。ただし保守派が、「階級社会になりつつある」や「中流層の崩壊」と言うのは、権力側がマイノリティに言い放つ「自己決定」にも似ていて悪質。またその危機を煽るような物言いは、ファシズムでしかない☆☆☆☆。
◆『王様のブランチ』、山口日記。
◆去年で仕事をやめて以来、家事労働をしている。朝の弁当をつくり、洗濯、買い物、そして夕飯をつくるという生活。
◆今日は彼女を送り出してから、志ん生の「富久」を聴く。ラスト近く、富籤が当たったけど富札をなくしてしまって嘆くところ、一転して、見つかって喜ぶところの表現、鬼気迫る。
◆ブランショ『ロートレアモンとサド』導入部読む。「批評が作品の生にいっそう親密に帰属している限り、評価されないものとして作品を経験し、深さとして捉えるが、またあらゆる経験の体系から逃れる、深さの欠如としても捉えるのである」「思考を価値の概念から保護しまた解放し、その結果、歴史の中ですでにあらゆる価値の形態から自由になり、全く別種の――まだ予測はつかないが――肯定を整えているものへ、歴史を開示する仕事に」。毎度読みにくく、うたたね。
◆今村仁司『貨幣とは何だろうか』。物質としての貨幣ではなく、制度としての貨幣形態を分析。交換の背後には死があるという第三項排除は、理屈からいえばしごく真っ当。だが貨幣を論じるとき、同時に労働を論じなければ意味ないんじゃないか。今村が昔から繰り返し主張する理論が出てきて、おもしろいんだが、毎度だなぁという感じの本。古典を貨幣小説として読み解くという戦法はマンガでもいける。学者は丁寧すぎる。もっと乱暴に対象に接すべき、ナンシー関のように。あるいは矢部史郎+山の手緑のように。☆☆☆。
◆テレビドラマで唯一心待ちにしている『S.O.S』。深田恭子のムチムチさにしびれる。内山理名は教室が似合う逸材。タッキー、ブラボー。
◆ここ一ヶ月くらいで買った本。彼女の部屋の本棚に無造作に置いてたら、「なんとかしろ、きたねぇ」と彼女がブチ切れた。ので、押し入れに積んである。
◆岩田宏詩集、大西隆志『オン・ザ・ブリッジ』、松本圭二『詩篇アマータイム』、豊原清明『朝と昼のてんまつ』、中井久夫『家族の深淵』、『BLACK MUSIC REVIEW』、ブルトン『シュルレアリスム宣言』、ボルヘス『伝奇集』、若宮啓文『現代の被差別部落』、ドーア『イギリスの工場・日本の工場』、『刑務所の中』、古今亭志ん生『なめくじ艦隊』、石光真清『誰のために』、『シャドウワーカー通信(4)』、小森健太朗『駒場の七つの迷宮』、谺健二『未明の悪夢』、片岡義男『東京のクリームソーダ』(潰れた光琳社出版の本がブックオフに流れてた。いろいろ山積み百円。)、リロイ・ジョーンズ『ブルースの魂』、松浦理恵子『ポケット・フェティッシュ』、いしいしんじ『ぶらんこ乗り』、植草甚一『モダンジャズの発展』、ベケット『しあわせな日々/芝居』、フロイト『不安の問題』、堀口大學訳『幼童殺戮』、『SFバカ本』、太田忠司『月光亭事件』、小沢雅子『新・階層消費の時代』、深沢七郎『ちょっと一服、冥土の道草。』、浜野サトル『都市音楽ノート』、綾辻行人『霧越邸殺人事件』、『マリファナ・ナウ』、森長英三郎『内山愚童』、『寺山修司の状況論集』、『松下竜一その仕事(4)』、隆慶一郎『一夢庵風流記』、『現代詩手帳』、平井玄『路上のマテリアリズム』、小栗虫太郎『人外魔境』(桃源社版で普通2、3千円はするが、リサイクルショップで百円で)、赤江爆『舞え舞え断崖』『罪喰い』『原生花の森の司』、岡本文弥『谷中寺町・私の四季』、ヴィアン『心臓抜き』、『チェホフ全集(1)』、岡本太郎『呪術誕生』、吉田健一『頭の洗濯』、ハフ『統計で嘘をつく方法』。『Coa volume8』
◆マンガは、
緑川ゆき『あかく咲く声(2)』、南Q太『タラチネ』、SABE『串やきP(1)』、ZERRY藤尾『扉をコジあけて』、貞本義行『新世紀エヴァンゲリオン(4)』、志村志保子『ブザー、シグナル、ゴー、ホーム』、上杉可南子『うすげしょう』、よしながふみ『こどもの体温』、加藤伸吉『バカとゴッホ(2)』、西岡兄妹『地獄』、古泉智浩『ジンバルロック』、大越孝太郎『月喰ウ蟲』、水野純子『水野純子のシンデレラちゃん』、服部カリオ『ゲイム』、櫻見弘樹『澱』、ジョージ秋山『デロリンマン(2)(3)』『スターダスト』、『山上たつひこ全集(10)』、『マンガエフ2001年2月号』、もりしげ『子供の森・完結編』、鈴木漁生『漁生の浪漫戦記・青春の墓場』、『デザート』、『ぶ〜けDX』、『スプリッツ増刊イッキ』、『プチパンドラ(4)』、『零式コレクション(1)』。
◆あとはCD、三上寛『南部式』『女優』、渚にて『渚にて』、石橋幸『私の庭』。
◆ヴァレンタイン。『エスパー魔美』全巻プレゼントされる。夜中トイレで早速全巻読了。乳首が◎なのが牧歌的。勉強しないのに成績がよいという高畠さんの悩み。この時代ではギャグだが、星里もちる『わずかいっちょまえ』では深刻になる。☆☆☆。
◆横浜国際競技場のフリマ。八ミリ映写機購入。