◆岸根公園近くの古本屋「ブックマート」で。『寺田寅彦随筆集 第二巻』、ライナー・チムニク『クレーン/タイコたたきの夢』、大塚英志『システムと儀式』、『日本一醜い親への手紙』、すぎむらしんいち『サムライダー(全三巻)』、きのした黎『にんふらばぁ』。CD、ザ・カスタネッツ『リビング』。
◆きのした黎『にんふらばぁ』読了。きのした黎のロリコン少女の描き方、とくにその胸のなさが、真正ロリコンを思わせる。アニメ絵のロリコン少女で、きちんと胸がないのは、案外少ないんじゃなかろうか。
◆「ブックマート」の近くにあるエロメディア専門店で、おもしろいエロ本を見つける。女性を坊主頭にしてしまうという、ただそれだけの写真集。剃毛前と剃毛後の写真が載っている。使用したカミソリはプレゼント、と確か書いてあった。エロ本がフェティッシュ化しているのは知っていたが、ここまできているとは驚いた。ここまでくると、エロ本とは呼べないんじゃないかと思うが、しかし、「エロ」は既存の枠では分類不可能な表現まで吸収する。「エロ」は「その他」をも含む。その許容範囲の広さ。
◆最近凝っているのが、めんたいこにマヨネーズをまぜたもの。白飯にかけて食う。これだけで、二合は食える。
◆『Comic Site』という美少女マンガ誌が今年の二月号から創刊された。そこに描いている桜井パピコが良い。玉置勉強に似た作風だけれど、勉強堂ほど完成されていない。ごつごつした手触りがする。創刊号に載った短編「ビタースイート」は、「おれはほんとうにユキのことがすきなのだろうか」と疑問を抱きつつ、体を合わせる少年が主人公。少女は病院に入院している。彼女は少年にかまってほしくて熱を出す。少年はそれが少しうざったい。ここで描かれている現象のひとつは、精神と肉体との対立とでも言おうか。心は離れてきているのだけれども、抱いてしまうという矛盾。観念と現実とのギャップ。人は思ったことと違うことをしてしまう。自分が言明した通りに動けない――だからこそ私たちは、「私はあなたが好き」という言葉さえ疑わざるを得ない――のが人間なのであって、私たちは、そのような「ズレ」に妥協しつつ生きている。例えば、「文学」という観念の力でその妥協を転覆させようとしたのが坂口安吾であると、福田恒存は書いている。桜井パピコはどうか。少年は少女を抱いたあと、別れ際に「もしも僕が死んでいなくなったりしたらどうする」と少女に言うことで、「ズレ」から逃れようとする。少女は「私も死んじゃうかも」と答える。これは少年がすでに予期していた答えだろう。これは応答ではなく確認でしかない。結局、彼は「ズレ」を抱えたままだ。私たちの殆どが、このように生きている。誰もが安吾のように強烈な精神を持っているわけではない。
◆Dragon Ashのダサさ。たけし泣く。コプチェク。おしっこを禁じられる夢は、おしっこをしたいという欲望の現れである。アフタヌーン黒田硫黄細野晴臣。
◆山川方夫の主題は演技であって。「愛」ではなくあくまで「愛のごとく」なのであって。
◆BGM、RCベスト。深沢七郎。三木のり平。ブックオフ、新田たつお『なちゅらるキッド(1)-(5)』、石原理『マサツグ君の生理的事情』、安野モヨコ『jelly in the merrygoround(1)(2)』、阿佐田哲也『東一局五十二本場』、島村洋子『ゼンギなき戦い』。全て百円。 雪。
◆久保純結婚、電通、広告は人、親の力を当てにして入社。
◆ヴァン・ヴォクト死す。
◆ BGM大工哲弘。
◆一瞬のうちに老人になって隠居したい。
◆ 『テレビ消灯時間』(文春文庫、1999)。 矢作俊彦『複雑な彼女と単純な場所』(東京書籍、1987) 見沢知廉『囚人狂時代』(ザ・マサダ、1996)読了。 買い物。すっぱムーチョ
◆横浜の港なんぞ貧乏くさいだけだ。山下公園へいってみろ。スピーカーから馬鹿でかい音量で、絶え間なく水上バスの宣伝を聞かされる。これはもう拷問の閾だ。まったく、どうしょうもなく程度ひくい。なんてことを矢作俊彦『複雑な彼女と単純な場所』(東京書籍)を読みながら思った。台所ファシズム→田中真紀子→ホームレスは恐いという構造。
◆太田和彦『居酒屋大全』(角川文庫、1994)、読了。
◆ 買い物。ぽんぽん船で、三島由紀夫『美しい星』(これは大木裕之が『エクスタシーの星』というタイトルでピンク映画化していて、なんというか、形容しがたい不思議な映画で、なにしろピンク映画なのに音楽がジョン・ゾーンなんだ。ミニシアターとか自主上映会じゃなく、映画館の大画面で大木裕之を観られるってのはピンク映画という場所でしかない。とかいって最近まったくピンクを観ていないのはいかんな。亀有名画座がなくなってしまったのは痛い。二、三年前の年末、30日だったろうか、自分のほかに全く客がいない亀有名画座で滝田洋二郎特集を観ていたのは、忘れがたい思い出だ。あそこは本当に、たしかに「映画館」だった。)、
◆山根一眞『メタルカラーの時代1』、奥村宏・佐高信『企業事件史』。言うまでもなくすべて百円。ってここは店内すべて百円なんだから当たり前だが。
◆近くにいつも行列のラーメン屋があるんだが、そんなにラーメンってうまいか? みんながうまいっていうからうまいと思ってるだけなんじゃないだろうか。
◆買い物、すっぱムーチョ、蜜柑。
◆ボガンボ、どんと死す
◆夏目房之介『手恷。虫はどこにいる』(筑摩文庫、1995)朝倉喬司『のぞきの為五郎』 傑作。買い物。ブックオフで、久世光彦『早く昔になればいい』、ヤン・ソギル『雷鳴』、大泉実成『消えたマンガ家』、梨木香歩『裏庭』、大仏(「だいぶつ」じゃないよ)次郎『猫のいる日々』、見沢知廉『囚人狂時代』、中島徳博『がくらん海峡(1)(2)』、言うまでもなくすべて百円。
◆中島徳博『がくらん海峡』(小学館)のキレっぷり、素晴らしい。
◆ちらほら雪。今年一番の冷え込み。yes,mama ok?『砂のプリン』聴きながら通勤。「三年たって十年たって変わらないことなどない/月の軌道は少しずつ離れてく/愛していたってことにしようなんて僕は言った/今頃になって君の答えは分かった」(「Farewell gritty pudding」)。yes mama,ok?は初めて聴いた。アレンジのこりかたがピチカートっぽいか。ただし野宮真貴(ってこういう漢字だっけ?)よりも、yes mama,ok?の仲澤真萌の声のほうが艶がある。とくに「Shopliftin' blues」の60年代のフランス映画っぽい編曲、それに重なる仲澤真萌のヴォーカルが絶品。恍惚。
◆二日かかって『辻潤全集4』読了。本を読んでるとき、気になったところに出会うとページの右上を折る。『辻潤全集4』は折り目が29。
◆アメリカの古文書保存館が、クリントンの不倫相手、モニカなんとかのドレスを保存するそうだ。ドレスにはクリントンの恥ずかしい染みがあって、この染みのDNA鑑定で不倫が確定されたかららしい。染みが腐敗しないような方法で保存するそうだ。まったく歯車が狂ったことをしている。馬鹿らしいからやめようって誰も言わないのだろうか。
◆吉田栄作が本格的に復活、ってどうでもいいか。
◆アカシモモカ『昭和喫茶』はタイトル買いだったが当たり。ノスタルジア。夜寝るときに聴くといい。
◆下村富美『仏師』途中まで。仕事を始めてから一日一冊のマンガさえ読む時間がない。8時間の睡眠時間は削れないし。
◆朝、水溜まりに空が映る。その横を自転車で走ると気持ちE。九時から七時まで仕事。合間に辻潤全集の四巻を半分ほど読む。
◆きんさんぎんさんのどっちだかわからんが、そういえば私はいまだに若花田と貴花田の区別がつかないのだが、とにかくどちらかが逝去した。「高齢化社会の理想を体現してた」という論調の追悼文をスポーツ新聞で読んだのだが、それってむしろ反対じゃないの。高齢化社会で皆が皆100歳まで長生したら困るって。西川きよしの「ずっと生きてるものと思ってた」というコメントには、いろんな意味で笑った。それにしても、他人のどうでもいいことに限ってよく騒ぐ。きんさんぎんさん小柳ルミ子梅宮アンナ。どうでもいいじゃねえか。関係ないじゃないの。そういえば、連日報道されてた誘拐事件があって、けっきょく誘拐された子供は殺害されたんだけど、その葬式に何千人も集まっていた。そんなに親戚がいるはずないし、ほとんどはテレビで知ってるだけの弔問客なんだろう。なんなんだ。よくわからん。スペクタクル社会ってやつか。あとテレビ局にわざわざ抗議電話したりする神経もよくわからん。テレビなんて嫌なら消しゃあいいじゃないの。以前見た新聞の投書欄に「『夜はヒッパレ』で、歌い終わった歌手に対してXXさん(忘れた)だけ拍手をしていなくてがっかりしました」というような投書が載っていたのには笑いを通り越してあきれた。んなことわざわざ投書するってのは、なんなんだろう。もう異様として言いようがない。
◆帰り道のブックオフ。内田百ケン『第一阿房列車』、斎藤惇夫『グリックの冒険』(ガンバが生まれる場面がラスト)、小沢昭一『裏みちの花』(『小沢昭一的こころ』も全部持ってるのよ)、青木雄二・宮崎学『土壇場の経済学』、『別冊宝島217二十世紀の性表現』『同33発想トレーニングの技術』(今と違って昔の別冊宝島は編集時間のかけかたが違う)、吉阪隆正『住居の意味』『都市のデザイン』『不連続統一体を』(今和次郎の弟子、挿し絵に影響が見られるか?)、『日本児童文学概論』(著者が大学教授ばかりなので、大雑把な歴史把握にしか役立たない本。例えば今江祥智『絵本の新世界』の児童文学版みたいなのはないのか。最近、児童文学といえば森絵都ぐらいしか読んでないのは、児童文学の批評が『週刊読書人』だか『図書新聞』にしかなくて、図書館に通わなくなったいなもの』(なだいなだ、いったいどっちだ、というギャグは筒井康隆だったか)、『クイックジャパン4』(百円なら買うわな)、片岡義男『本についての、僕の本』『ブックストアで待ち合わせ』(まったく片岡義男のタイトルのカッコよさといったら!!)、ブノワット・グルー、有吉佐和子訳『最後の植民地』(つまり男にとって女は最後の植民地ってこと。それにしてもこの表紙、著者より訳者の名前のほうが目立ってる。背表紙にいたっては有吉佐和子の名しかないのが凄い)、『江子田文学〜特集・大野一雄』、パトリック・ハンフリーズ『トム・ウェイツ・酔いどれ天使』(日本で低音の魅力といえば神戸一郎フランク永井水原弘なんだが、むこうではなんといってもトム・ウィイツだろう。トム・ウェイツといえば、うた声だけでなくピアノも、けっして上手とは言えないのだが、素晴らしい)、高橋亮子『夏の空色』(これは以前見つけて、後で買おうと思ってたら誰かに買われてしまったのだった。古本は見つけたときに買うのが鉄則なり)。以上全て百円。
◆高橋亮子『夏の空色』(小学館フラワーコミックス、1980)を読み、胸焦がれた気分で就眠。
◆ピーズ『どこへも帰らない』。
◆ ディスクユニオンで、アカシモモカ『昭和喫茶』、yes,mama ok?『砂のプリン』、ブーム『ジャパネスカ』。
◆いつもいく109の中華料理屋で食事。二人で腹一杯たべて2700円は安し。
◆『海の上のピアニスト』、劇場で見るも、期待はずれ。モリコーネの音楽も含めて。
◆眠いんだが、東急デパートの大古本市へ。伊勢丹に続いて今年二度目のデパート古本市。それにしても古本市のマンガはどうしてあんな高いの? たしかに品揃えはいいんだが、高すぎる。だいたいマンガはプレミアが付きすぎてる。でも山松ゆうきちを二冊(『おもしろ激場(3)』『山松ゆうきちの笑劇場(3)』)買うが、800円もする。探せば百円で買えるのだが、その労力を考えて仕方なく買ってしまう。堕落した。あと、R・D・レイン『ひき裂かれた自己』、金子光晴『日本の芸術について』、吉岡実『サフラン摘み』、渡辺恒夫『迷宮のエロスと文明』、山根鋭二『恍惚蟲』、『現代思想〜特集・近親相姦』、『ライヒ〜性の抑圧と革命の論理』、中井正一全集3『現代芸術の空間』、『辻潤全集4』を買う。
◆中井正一全集は線引きで安くなっていた。書き込みとか線引きがあると安くなるが、個人的には書き込みがあるほうを高くすべきだと思う。だって書き込み読むのっておもしろいもん。
◆新宿へ。サザンシアターで演劇を見るからついでに会おうというので、久々に母親と会見。天ぷら特上。特上なんて自費じゃ絶対食わん。
◆新宿にくるのも久々。ずいぶん行ってない模索社へ。『P・G』の葉月蛍特集号を立ち読みすると、ええ話が載っていた。大阪の新世界かどこか、肉体労働者ふうの男性が葉月蛍に近寄ってきて、男「あんた映画でてるやろ?」「はあ」「ピンク映画やろ」「はあ」「がんばれよ」。この「がんばれよ」ってのが泣ける。『シャドウ・ワーカー通信(1)−(4)』、『フェミ風呂 創刊号』、『Shelter-less 4』、『すこやかなまんが(1)+(2)』。あとCDで、フェビアン・レゼ・パネ、宮野祐司『プランタール』(off note)。あと、『渋さ知らズ〜ヨーロッパ1998』(地底レコード)。これはビデオ2本組。しかし、うちに二台あったHiFiのSVHSビデオ、ふたつとも同時に壊れたので、いい音で観れないのが残念。
◆電車のなかで人が読んでいる本や、話している会話をつい観察してしまう。 世の中は、人が読んでる本が何か知りたい人間と、そうでない人間とのふたつに二分される。向かいに座った女性が金子光晴を読んでたりしたら、人目ぼれして恋に落ちちゃうよ。隣に座った二十代前半の青年は『SPA!』を読んでいた。観察していると、どうも見出ししか読んで(見て?)いない。なぜか、やくみつるの四コママンガと空想科学研究所だけ熱心に読んでいた。花くまゆうさくのマンガ以外まったくどうしょうもない『ダカーポ』(それにしても『ダカーポ』を定期購読している奴の顔、見てみたくはある)とか、つまらん雑誌に限ってやくみつるが載っている。やくみつる、おもしろいか? つまらないを通り越して、怒りさえ涌いてくるのだが。見出しと四コママンガだけ読むというのは、普通の人が新聞を読む仕方と一緒だろう。雑誌にしても新聞にしても、誰も記事なんて読んじゃいないのだ。いかん、つい「普通の人」なんて嫌な言葉を使ってしまった。ピーズ(ピーズに非ず)が歌っているように、どこにでもいる奴なんてどこにもいない。
◆拷問のように映画を見る
◆マクドナルドでワッパーを注文してるオヤジを見た。「ワッパー」「は?」 ワッパーは?」「お客様、それはバーガーキングでございます」。
◆マルセ太郎『芸人魂』(講談社)、なぎら健一『東京酒場漂流記』、読了。両方笑えた。いかも爆笑。
◆ 桜木町駅の本屋で『虫けら艦隊』(河出書房新社、1999)というタイトルが目についてちょっと手に取ると、冒頭、ブロン中毒の話から始まって、しかも『BURST』連載というので、すぐレジへ。ブロン中毒っての
は、他の薬物中毒と違って、なんだか情けなくて好きだ。なにしろ咳止め薬だもん。
◆今年一番の寒さにもかかわらず、自転車で仕事場の山下埠頭まで走る。
◆仕事場でJ・T・ロジャース『赤い右手』(国書刊行会、1997)読了。クリスティーの『アクロイド殺し』に匹敵する叙述トリックの傑作とか解説にあるけど、これはつまんなかったな。時間の無駄。国書刊行会から出てる同じシリーズ、クリスピン『愛は血を流して横たわる』はおもしろかったんだけどな。『愛は…』は法月綸太郎が評価していたんで読んだんだ、たしか。
◆中村浩『糞尿博士・世界漫遊記』(社会思想社、現代教養文庫、1972)。糞尿一筋三十年の著者が、各国の糞を訪ねる旅行記。糞を堆肥にクロレラを育てることで、糞を食料化すること、糞尿博士の目標はこれである。「およそクソと名のつくもので、馬糞ほどきれいなものはない。手にとってもてあそびたいほどのものである」(p.153)って、ホントかね。
◆仕事帰りに横浜駅近くのブックオフで、山田風太郎『魔界転生(上)(下)』、ドウォーキン『インターコース』、ウィティッグ『子供の領分』、岡崎京子『ハッピーハウス(上)』、小澤さとる『サブマリン707F』。すべて百円。山田風太郎の角川文庫とか、白水社の世界の文学シリーズとか、プレミアのつく店ではついてるんだが、ブックオフではすべて百円というこの乱暴さを喜ぶべきか悲しむべきか。
◆スーパー・フレッシュですっぱムーチョ、蜜柑、牛肉を購入。
◆とうとう(ここ強調)『なまいきシャルロット』観る。いわゆる青春映画。「青春」ってのは、つねに事後的に見出され構築されるものであって、そこでどうしても入り込んでくるのが、満たされなかった過去を満足させたいっていう、作り手の願望なわけだ。青春映画のうさんくささってのは、そこね。援助交際ってのもその一種。あれって結局、同級生とSEXしたくてもできなかった人たちが、援助交際で暗い過去を払拭したいわけでしょ。「私は高校時代もてませんでした」って白状してるようなもんだ。暗かったんなら、そのことをそのまま肯定してやればいいじゃないの。「僕は二十歳だった。それが人の一生でいちばん美しいときだなんて誰にも言わせまい」(ポール・ニザン『アデン・アラビア』)。ま、それはそれとして、問題はシャルロット・ゲンズブールである。自慢じゃないが、シャルロットとの心の付き合いは広末より長い。広末とシャルロットのどっちをとるのか。おらぁ両方好きだ。なに言ってんだバカ。でもどちらか選べと言われたらシャルロットだな、いやでも広末も……うーん。シャルロットのために死ねる私ですが、映画は『太陽は夜も輝く』しか観ていないのだ。好きだからこそ観られないっていう、この微妙な恋心。狂ってるか、オレ。あぁ。とうとう観てしまった。何も言うまい。何も。
◆暇な職場なので一日一冊は本が読める。今日は小林信彦『唐獅子株式会社』(文藝春秋、1978)。高校の頃文庫で読んだはずだが、内容はほとんど忘れていた。時代風俗に依ったギャグは、なんとなくしか分からない。文庫の解説で筒井康隆が逐一ギャグの解説をしていたと思うが、それで理解したからって笑えないのが「笑い」の奥深いところだ。パロディの部分は笑えた。ちなみにパロディとカリカチュアの違いは小林信彦から教わった。小林信彦からはいろんなことを教わっている。多分おれが一番教わってるのは小林信彦と橋本治だ。
◆ジル・ドゥルーズ『記号と事件』(河出書房新社、1992)を3分の2ほど。フーコーのとこまで読む。原題は『折衝』。「哲学は戦いなき戦いをたたかい、諸力に対するゲリラ戦を展開する。また、哲学は他の諸力と語り合うこともできない。相手に向かって言うべきこともないし、伝えるべきことももちあわせていないからだ。哲学にできるのは折衝をおこなうことだけである。哲学以外の諸力は私たちの外にあるだけでは満足せず、私たちの内部にまで侵入してくる。だからこそ、私たちひとりひとりが自分自身を相手に不断の折衝を続け、自分自身を敵にまわしてゲリラ戦を繰り広げることにもなるわけだ」(序)。かっこいいけどねえ。「フーコーが考える歴史の基本原理は、あらゆる歴史的形成が自分の言いうることをすべて言い尽くし、見うるものをすべて見るというというところにあります」(p.161)。フーコーの特徴は「可視性」にある。権力は空間に網の目のごとくで広がっていて、主体は全てミクロなレベルの権力によって規律化されている。権力はすべて見渡してるってわけ。フーコは主体を認めない。主体はイデオロギーの作用だから、当然イデオロギーも認めない。で、こうなると全く抵抗というものができなくなる。それでフーコは晩年に「倫理」、権力に基づく「道徳」ではなく、自己が作る「倫理」を抵抗の根拠として出してくるわけだ。でも、道徳と倫理ってどうやって見分けんのさ。フーコーの理論に立てば、誰も見分けつかないんじゃないの。フーコとかドゥルーズは超越性を認めないけど、そんじゃぁ、誰がどうやって見分けんのさ。何だかんだいってフーコーには超越的な主体(スピヴァクに言わせれば「西洋という主体」)が入り込んでるのよ。そもそも、「自分の言いうることを全て言い尽くせる」というのは納得いかない。言葉で表現できない空白の部分があるんじゃないのか。その空白こそが主体じゃねいのか。そう考えたほうがいい。ラカンが『テレヴィジオン』の冒頭で「私はつねに真理を語ります。すべてではありません。なぜなら真理の全てを語ること、それはできないことだからです。それは素材的に不可能です。そのためには言葉が不足しているのです」と言ってるのは、そういうことだろう。ただし、ここでラカンの言う真理は、言い表せないものだが、超越したものではないと解釈したい。ラカンの娘の暴露本によると、ラカンは相当に嫌な奴だが、その点で、やたらナイーヴなフーコーとかドゥルーズよりも好き。いい人が書いた本より、嫌な奴の書いた本のほうが読んでて楽しいいでせう?。(嫌な奴といえば、もはや忘れ去られている三木清も相当嫌な奴だったらしい。だから今『人生論ノート』読んでんだけど、今時これ読んでる若人なんているのかね、でも三木清を馬鹿にしちゃいかんよ)。ドゥルーズはラカンを超えたらしいけどさ、「映像の上を映像がすべり、映像の基底は常に映像になっている」(p.129)なんて、「映像」と「シニフィアン」を入れ替えたら、そのままラカンになるじゃないの。あと、「イデオロギーはありません」とか言うのはヤバイ。あるって、絶対。なければ困る。イデオロギーはふつう日本語に訳すと「虚偽意識」だけど、勝手に意訳して「紋切り型」と訳してしまえば、世の中の言説は、ほとんどが紋切り型に落ち着いてしまっているんじゃないかね。ドゥルーズは自殺しちゃったけど、袋小路に陥って自殺するより(ナイーヴなインテリはそういう死にしびれちゃうんだ、これが)、階級闘争でもしてたほうがいいよ、ホントに。階級はないなんてアホなこと言ってるバヤイじゃないのよ。ところでドゥルーズは3という数字をよく持ち出すが、今日のオイラの郵便貯金の残高、33333円だった。シンクロニシティだなぁ、っていいのか!!、それで済まして。少ないよ、まったく、もう24だよ。
◆でも、仕事帰りに六角橋商店街の鐡塔書院で、平田オリザ『十六歳のオリザの未だかつてためしのない勇気が到達した最後の点と、到達しえた極限とを明らかにして、上々の首尾にいたった世界一周自転車旅行の冒険をしるす本』、(長すぎるぞオ、オイ)、『現代思想 総特集ヴィトゲンシュタイン』(ヴィトゲンシュタインにはどこか魅かれる)、『インパクション114』なんて買ってしまって、金はダイジョブかい、ワレ。
◆24時間やってるスーパー、「フレッシュ」ですっぱムチョ買う。もうずいぶんすっぱムーチョ中毒なり。
◆エミール・ストリッツァ『パパは出張中!!』観る。『アンダーグラウンド』もそうだったが、音楽の使い方うまし。悲しい場面に悲しい音楽を扇情的に大音量でかけるという愚かしいことはしていない。
◆怠業な気分。自主的に休む。これがホントの労働運動。
◆横浜ビブレの雑貨屋LIFE INDEXで、文庫棚と白いカップふたつ購入。最近、afternoon teaとかフランフランを見るのが楽しい。でも、「こじゃれやがって」と相反する気持ちもある。正月にフランフランの福袋を買ったが、たいしたものは入ってなかった。東急ハンズでスイッチカバー作る。
◆ぽんぽん船で、山中恒『トラブルさんこんにちは』、J・T・ロジャース『赤い右手』、リンドグレーン『長くつしたのピッピ』、李ウファン(漢字出ない)『時の震え』、アニータ・ブルックナー『結婚式の写真』、牛次郎・ビッグ錠『スーパーくいしん坊(2)−(4)』、相馬雅之『パオパオアッコ(1)』、佐々木倫子『おたんこナース(1)−(4)』。全部百円。
◆ついでに正月前後に買った本を列挙するかと思いきや面倒くさくなる。
◆山形浩生『新教養主義宣言』晶文社,1998、読了。全部かいてある。
◆竹熊健太郎氏に、「今度の著作期待してます。蓮見重彦『凡庸なる芸術家の肖像』のマンガ家版のようなものになるのですか」と質問する夢をみた。