山松ゆうきち『くそばばあの詩』

青林堂,1973年
A5判
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 どの本で読んだか忘れてしまったが、糸井重里のエッセイに、想像上の音でどれくらいの高音まで可能か、というのがあった。つまり声には出さず、頭の中で、ドレミファソラシドドレミファソラシドドレミファソラシドとオクターヴを上げていく。声には出さないのだから、声帯という物質的=現実的限界にはとらわれない。限りなく高音が想像できるように、いっけん思ってしまうだろう。ところが、実際にやってみると分かるが、想像上の高音には限界がある。
 寺山修司は『身毒丸』のしめくくりに「どんな鳥も想像力より高く飛ぶことはできないだろう」と書いた。だが、このようなロマン主義的な想像力讃歌には嘘がある。想像力は、ある枠以上のことを想像することはできない。
 あるいは、複製技術の時代の「音楽」についての卓越した理論家であるovalは、テクノについてこう言う。「音楽的な可能性を広げるフリはしているけどね。……。ローランドの何とかマルとかいった機材から出てくるような音は、あまりにも結果が予測しやすい。結局のところ、このようなハードウェアから生み出される音のコンビネーションを一番理解しているのは、ローランドのプログラマー自身だよ。あまりにも制限されていて、予測がしやすいものだ」(『マーキー』vol.5)。
 例えば、社会化された人間が、言語以外の仕方で思考することができないということ。私が何かの対象を見るとき、その何かは既に言語によって分節化されている。コップを「コップ」以外のものとして見ることは不可能である。人はかつて学んだようにしかものを見ることができない。日々の生活で会得する「日常性」や、学校教育で教わるような「常識」は、社会的に制度化されているので、体に染み付いてしまう。
 ひとむかし前に『一杯のかけそば』という童話が流行したことがあった。清貧と親子愛。これなど常識的な表現の最たるものだ。そして、このような分かりやすい物語が、圧倒的に支持されるのだ。
 対して宮沢賢治の童話には、よく分からない部分がある。例えば『革トランク』という非常に短い短編は、出世した主人公が革トランクをもって故郷に帰るという、なんとも明瞭な物語だ。けれども、やっぱり、なんだかよく分からないのだ。その分からなさに魅力があるゆえ何度も読み返してしまう。
 ところで、並べるのは奇妙と思われるかもしれないが、宮沢賢治と山松ゆうきちのマンガは似ている。どちらの描く人間も、常識的な価値観からずれた動きをしている。それに二人とも東北系だ。

 山松ゆうきちは1948年に生まれた。16年後の1964年、日の丸文庫でデビュー。山上たつひこらと日の丸文庫の編集に携わりつつ、1967年に『週刊漫画TIMES』で雑誌デビュー、以後さまざまな雑誌で活躍することになる。
 私が初めて彼のマンガを読んだのは、マガジンハウスが出していた『アレ』という雑誌だった。高校生の頃だ。たしか吾妻ひでおの復活はこの雑誌からだった。ほかにも高野文子、しりあがり寿というメジャーどころを揃えていた。(個人的には、大森しんや『鉄の字』が好きだった。)山松ゆうきちが描いていたのは、ギャンブルエッセイ風のマンガで、そのノホホンとした暮しぶりを羨ましく思ったりした記憶がある。

 山松の代表作として『くそばばの詩』(青林堂、1973)が挙げられることが多い。このシリーズの秀作「純情らっぱ〜山田いくべえさん」は、汲み取り屋の社長ながら、50を超えてなお現場で汲み取り作業に精を出す独り身の老女、山田いくべえが主人公である。「美人も美男子も生きている者はみんな糞袋を持って歩いとる」と朝礼で従業員に訓話。「汲み取り成り金、屁こきいくべえ」というあだ名の通り、屁で会話をするがごとく、人前で常に屁をする。絶対我慢はしない。モットーは「腹八分にして屁をよくへれ」。だが、お見合いの席で放った一発のあまりの凄さに、相手の男は「ものには限度があります」と席を立つ。山田いくべえは失恋の腹いせに、男の家にバキュームで糞を噴射する。「何で屁をひるのが悪いのや。屁をたれるも糞をたれるも自然のものやないか」。初めての恋に破れた山田いくの頬を一筋の涙が光る。
 多分、このマンガ以前に、このように強烈な老女が描かれることはなかったのではないか。常識的な表現からすれば、年老いた老人はおだやかな性格として描かれるだろう。だが、山松の描く山田いくべえは世の常識からずれている。だから読者は容易に理解できないだろう。
 だが、例えば人前で屁をしてはいけないというのは、いったい誰が決めた決まりなのか。

『ガロ』1997年1月号に、山松ゆうきちのインタビューが載っている。

「大分前だけど親が『墓を作るから金をくれ』っていうんだよ。で、『今までの丸い石でいいじゃないか』って言ったら『村ん中でそんな石を置いている家なんてない。うちだけそんなんでいいのか』って。俺はいいと思うんだけどさ。そしたら皆で俺のこと『おかしい』って言うんだよ。『暮らしていけないよ』って」。
「個人的には差別ってないんだよ、悪口なんだよ。もし差別があるとしたらそれは制度なの。例えば就職するのに『日本国籍で何歳までで、大学卒が55歳が定年で』って、あれが全部差別だと思うのね。でも不思議なことにそれがなくなっちゃうと世の中成り立たない」。

 ここで山松が言っているのは、世の中は網の目のような制度で成り立っているが、目から重りを取り去ってみれば、その制度が存在する理由はないということだ。そして、本というものは、読者の目の重りを取り去るための手段としてあるべきなのではないか。しかし、例えば溢れるほど出版されているビジネス書は、そのような役割とはまったく逆の役割を果たしているし、小説やマンガで描かれるほとんどの物語は、制度に乗っとっている。
 だが、山松ゆうきちのマンガは制度からズレる。
『憤死』という短編がある。父親を殺したブタのように大きな「クジラ鳥」をしとめるのに30年の月日を費やした男。その間に女房も子供も死んでしまう。やっと鳥を見つけ矢を射ったら、その鳥は便秘で便がたまって巨大化していただけで、矢が体に刺さったショックで、鳥の体から便が出て、その巨大な便に埋もれて男は「憤死」してしまう。
 これなど、まったくなんの理由付けもない、どうでもいい話なのだが、しかしよく考えてみれば、私たちの日常はこの程度のレベルのものではないだろうかと思わせるところがある。
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