町田ひらく『幻覚小節』

一水社,1997
ISBN4-87076-245-5 A5判
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表紙画像

 性欲は本能でないのだから様々な性幻想が存在する。だが今でも多くのエロ漫画は男性(女性)の単純な快感原則的欲望を回収するだけの装置といっけん見える。よってしばしば攻撃の矢面に立つが、それは、安易に全体を「エロ漫画」と括ってカテゴリー化してしまったものや、その「エロ漫画」が性的犯罪を引き起こすという全くの事実誤認や、男性中心社会への構造批判とその表象の批判とを混同した還元主義であることが多い。ここでやるのはあくまで(エロ)漫画批評の試みである。
 エロ漫画に限らずエロという場はマイナー/周辺であるがゆえに表現の実験場や対抗文化としての機能を担ってきた。メジャーでは規制されかねない多様な性が描かれ、個性的な作品/作家がそこで生まれてきた。最近それら作品への評論や復刻が盛んなのは良いが、ポップやらモンドやらで味付けされサブカル臭が強く、しかも対象は主として過去の作品に限られている。過去は現在のためにあるのだからここでは現在を見ていこう。
 注目するのは町田ひらくである。他に類をみない映画的表現の鮮やかさ、死に彩られた毒のある抒情。手塚治虫や宮沢賢治の意識的な引用。ときにメタ物語的な要素も見え隠れする。さらに、始めからエロ漫画家志望でないからだろうがエロ漫画のもつコードに自覚的である。だからその性描写は「目的」ではなく「手段」である。
 デビュー作「ワイルドグッピー」(『きんじられたあそび』収録)を見てみよう。少女とチンピラ青年のむさぼるような性交によって描かれているのは狂恋とも呼ぶべき恋愛だ。少女は男根主義的ポルノに描かれるような単なるモノではないし、その性描写は特殊な性愛を描くときに不可欠なものだ。
 「Rabbit Burst」(『幻覚小節』収録)は児童虐待を描いた漫画のうちで最も真摯な作品のひとつである。
 モノである身体に意味付けをし読者の性的誘発を導くものをポルノと呼ぶならば町田ひらくにはそのような内的意図はない。(もちろん意図はなくとも比較的コードに忠実な作品を描かざるを得ない場合はあるが)。彼は外からではなくあえて内から、ときにコードを逆手にとって一種の反抗を試みているようにおもう。
 だから、幼児をレイプした男性は、そのために執拗に痛めつけられなければならない。女性も男性も、言うなれば世界全体が不幸に包まれている。異世界を舞台にではなく、あくまで日常を舞台に、不幸を反復させ、読者を不安に陥れる。
 性表現における快/不快は男女とも人それぞれであり、その性的志向(それがたとえ社会構造による社会化の作用だとしても)を断罪することは傲慢だ。だからといって女性(男性)を一定の方向へ固定化するような表現をただ放置することは思考停止にすぎない。エロ漫画という(もはやジャンルではなく)メディアは、欧米のポルノと異なり、次々に新しい欲望を生み出し混沌とともに独自の発展をしてきたのだから、重要なことは、「ポルノ」とひとくくりにせず個々の作品を具体的に開かれた場所で批評していくこと。それは町田ひらくや例えば山本直樹の異質性をきちんと掬いとっていくこと。
 最后に。いま美少女漫画について書くならば、児童ポルノ規制法案(通称)を素通りすることはできないだろう。これについての様々な問題点は雑誌『創』7月号に譲る。ここでは以下のことだけ。
 表現の種類には「エロ」というオルタナティブな場だからこそ可能な質がある。ある種の対抗文化として、見せかけの良俗、清潔さや偽善を暴露する表現が俗悪文化として存在できる自由はあるべきだ。なぜならそこで描かれるのはときに真実にちかいものなのだから。
(大学で発行の雑誌『神奈川大学探偵』に書いたもの。だからまわりくどくおおげさ。批判を避けるよう無難に書かれている。山本直樹の名を出すあたりいじらしいというかいやらしい。)
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ref.
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