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瀬々敬久
1960年、大分生まれ。
京都大学在学中から自主映画を撮り始める。
1989年、「課外授業・暴行」で監督デビュー。思想的・社会的視点を取り入れた刺激的な表現の作品を次々と発表。
1995年、なぜか辻仁成の初監督作品のプロデュースを手がける。
同1995年、ロッテルダム映画祭、ヴィエンナーレ映画祭で「猥褻暴走集団・獣」が、カルロヴィヴァリ映画祭、ヴィエンナーレ映画祭、1996年ロッテルダム映画祭で「高級ソープテクニック4・悶絶秘戯」が上映され、フェミニストに批判されるも、無視するのではなく、積極的に議論を繰り返す。
劇場公開作品(「 」は公開題)
- 『羽田へ行ってみろ、そこには海賊になったガキどもが今やと出発を待っている』
「課外授業・暴行」
脚・瀬々敬久 出・中島小夜子 1989年月公開
1996.5.23. 有楽町シネマの特集「ヌーベル・ピンクの旗手たち」で初観。入れ替えなしなので2回続けて観ることができた。この映画を観なかったら、ピンク映画を観続けようとはしなかっただろう。個人的には特別な記念碑的フィルムである。
モモ[中島小夜子]が羽田空港の鉄柵によりかかり、「卒業3日前……」とつぶやいてこの映画は始まる。(最近ユーロスペースで観たとき、冒頭のこの科白が途切れていてよく分からなかった)。続いて、港を車が走り去り、タイトルバック。車のなかにはモモと教師[下元史郎]。モモの制服をまくりあげ抱こうとする教師。と、車の窓ガラスを叩く音。窓外を見ると、ジョニー[]がポラロイドを撮っている。ジョニーは写真で金を要求し逃げる。教師は当然「返せ」と追いかけるが、ジョニーとモモは、ハカセ [清野博士]の用意していた船で海へと逃げる。
その途中で、ジョニーたち三人は、倒れていた金魚[佐野和宏]を助け、船へと連れていく。この金魚が倒れているシーンが秀逸。金魚は中国人のシャブ中闇ブローカ。薬が切れて「女はどこだ?」暴れだす。モモが金魚の持っていた拳銃で金魚に向かって引き金を引く。しかし空砲。金魚いわく「撃つときは目をつむるな」。
漁船がたむろする港。ジョニーとハカセがカップラーメン作っている。「生まれてすんません。やっぱ太宰はいいなあ。」ハカセが読んでいた太宰をうばって、ラーメンの蓋押さえにするジョニー。(ここが土田世紀の漫画『未成年』のパクリ部分だろうか?)。そこへ、ジャパゆきのヤン[小川真美]がやってくる。……続く。
- 『昭和群盗伝2 月の砂漠』
「破廉恥舌戯テクニック」
脚・ 出・ 年月公開
- 『わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつです』
「禁男の園 ザ・制服レズ」
脚・ 出・ 年月公開
- 『現代群盗伝』
「未亡人 喪服の悶え」
脚・ 出・ 年月公開
秩父困民党を現代に出現させるという強引な力業をやっている。
金をかけなくともおもしろい映画は撮れるということ。
葉月蛍からにじみでている純粋さ。
瀬々監督の持つ共同体志向に胸をうたれた。最近見た映画のなかでイチバン泣けた。
- 『わたくしの汽車は北へ走っているはずなのにここではみなみへかけている』
脚・瀬々敬久 出・伊藤猛,岸加奈子 年月公開
圧倒的な風景!! ピンク映画のカラミのシーンは得てしてワンパターンに陥りがちだが、この映画は違う。ラストのテロップの出し方とか最高。これがピンク映画と言うだけで正当に評価されないのはおかしい。
- 『迦楼羅の夢』
「高級ソープテクニック4 悶絶秘戯」
脚・瀬々敬久,井上紀州,青山真治 出・伊藤猛,下元史朗 年月公開
レイプして捕まった男[伊藤猛]が出所後そのレイプした女に救いを求める。やがて、一緒にレイプした男[下元史朗]を浴室でナイフで殺し、そして鳥のように塔から飛び降り死ぬ。
象徴的な鳥の映像からだろうが、つげ義春のマンガ「鳥男」を連想した。
子供を殺してしまうシーンの重苦しい緊張感に、改めて伊藤猛の役者としての力を実感する。伊藤猛や川瀬陽太は日本でもトップレベルの俳優だと思うのだが、活躍の舞台がほとんどピンク映画しかないというのが日本の文化レベルの低さだ。それでも、川瀬陽太は福居ショウジン監督の『ラヴァーズ・ラヴァー』に主演したりしていて、川瀬陽太ファンのオイラとしては嬉しい。
瀬々監督作品のなかでは最も静かで残酷。あとをひいて体に悪い映画。
- 『坊さんが屁こいた』
「未亡人 初七日の悶え」
脚・ 出・ 年月公開
大震災を伏線とした、善悪入り乱れた娯楽作品。ラスト近くの対決シーンは「課外授業・暴行」(『羽田へ行ってみろ、そこには海賊になったガキどもがいまやと出発を待っている』)を思わせる。その、手持ちカメラの臨迫感。「課外授業・暴行」のラストは今でも目に焼きついている。あれを有楽町で見ていなかったらと思うとぞっとする。
- 『九月の堕天使』
「本番レズ 恥ずかしい体位」
脚・ 出・ 年月公開
みずき健『シークエンス』に影響された少女の自殺事件を題材に映画化。事件をモチーフに話をふくらませていくのが瀬々監督のやり方だ。
Bの万引きを目撃したことをきかっけにAはBに近付く。AとBは互いに愛し合う。Bの胸にオリオンのような傷があるのをきっかけに、自分たちの前世は戦士だとAはBに話す。二人は旅に出る。船の上で「前世でやったように飛び込んでみてよ」とAはBに言う。飛び込めないA。男と交わるBの声を聞いて耐えられなくなり母親に「助けだして」と電話してしまうA。Bに会いにいくA。「前世だとかあんたは何かに頼ってばかりいる」とBに批判されるA。「あんたは戦士じゃない。ほんとの戦士はこの娘とあたし」とBはCの傷跡を見せる。「嘘なのよ。Bと話したいから嘘ついたのっ」と絶叫するA。金魚をトイレに流すA。テレクラに電話して処女を捨てるA。「あんたなんか関係ないのよ」と男を叩くA。熱したフォークで自らの胸に傷をつけるA。AはBに再び会いにいく。拒絶されるが、「愛してるの」と抱きつくA。海へと向かうAとB。二人は交じあう。「前世でもまた会いたいね」というB。海岸で眠る二人。Aは立ち上がり海岸へ。そこで打ち上げられた金魚をみつける。Aは祈るように金魚を手のひらで包み込み海へ流す。金魚は元気に泳ぎだす。Aはどんどん深く海に入っていく。そんなAに気付いたBは、Aを追って海へ。BがAに追い付く前に、Aは海に潜る。やがて海から上半身を出すA。Bに向かって振り向くA。
みずき健の原作マンガは一時期やたら古本屋で見かけた。妹も持っていた。この事件については浅羽道明のがおもしろい。瀬々監督は見事に映画化しているが、しかし自殺はしない。ラストの主人公の顔は希望なのか。痛々しいまでの感情のぶつかり合い。瀬々ワールドの主人公は熱い。
- 『俺たちゃ二十一世紀の糞ガキタチ』
「牝臭・とろける花芯」
脚・ 出・ 年月公開
96/11/21 文芸座にて。
主人公は両性具有の二人。いつの日か自転車で翔んでいくことを夢見ている。
映画を見慣れた人なら、冒頭の二人の顔のアップの映像で、これはもう傑作にちがいないと分かるだろう。事実傑作なのだが。
ラストのひまわりが美しい。
瀬々監督はテアトル新宿で「『羽田へなんたら』は土田世紀を意識しているのか」という質問に「俺のは全部パクリだから」と答えていたが、この作品は松本大洋の『鉄コン筋クリート』のパクリである。パクリといっても発展的なパクリである。
今、個人的に日本でいちばん好きな監督は瀬々敬久監督だ。
新作のロケでトークショーは欠席だったのが残念。
- 『End of The World』
「すけべてんこもり」
脚・ 出・ 年月公開
河名麻衣と川瀬陽太の存在感と演技が素晴らしい。
ラスト、川瀬陽太が観客に「おれたちは何のために生まれたんだ? 何のために生きてんだ? どうして死んでいくんだ?」と語りかけるのだが、こんなことを恥ずかしげもなく語りかけられるというのが凄い。忘れていなければ生きていけないようなことを、あえて観客に語りかける。
劇場公開処女作の「課外授業・暴行」(原題『羽田へいってみろ そこには海賊になったガキどもが今やと出発を待っている』)では登場人物皆殺しで絶望的な終わりだったが、最近の作品では、確かにラスト登場人物は死ぬが、その終わりから始めるという再生感がある。『エヴァンゲリオン』の劇場版予告編風に言うなら「Death and Rebirth」だ。「すけべてんこもり」は物語性うんぬんをつき抜けてるという点では『エヴァンゲリオン』(TV版)と似てるのかもしれない。終末感という点でもそうかも知れない。いや『エヴァ』というより、ヴィターリー・カネフスキー監督の『ひとりで生きる』か。
三宅島の風景はまさに異世界。
瀬々監督は風景派監督だ。なによりもまず先に風景がある。
- 『夜、啼く蝉』
「終わらないSEX」
脚・ 出・ 年月公開
- 『来るべき光景』
「赫い情事」
脚・ 出・伊藤猛,葉月蛍,川瀬陽太 年月公開
冒頭、からみの場面で男[伊藤猛]が言う。「これから何回お前とこんなことするんだろうな」
安寿[葉月蛍]は、会社の同僚である男の恋人[工藤翔子]の死を予知する。(この予知イメージの傘が落ちてくる絵がスタイリッシュで良い。赤と黒の重苦しい色が全体を占めるこの映画の中で唯一開放感がある明るい絵なのだが、しかし、それすらも死に繋がる絵だというのがこの映画の救いようのない暗さを象徴している。)安寿は会社をやめる。男は女の能力に気付いて女を追いかける。安寿は自分の予知能力に苦しんでいた。男は安寿をなんとか救いたいと思う。安寿は厨子王[川瀬陽太]と暮らしていた。男と交わった安寿は、男が厨子王に刺されることを予知する。「お願い。私を信じて逃げて」「決まっているのか。何もかもきまっているのか。誰が決めるんだ」安寿の予知どうり厨子王はナイフを手にして男を刺そうとする。だが刺されたのは男ではなく・・・。
亀有名画座、ユーロスペースと一週間内に二回も観たが、あまりピンとこなかった。泉由紀子と伊藤猛がなんで結婚したりするのか分からないし、葉月蛍の行動もよくわからんし、伊藤猛の葉月蛍に対する気持ちも葉月蛍の伊藤猛に対する気持ちもよくわからん。例えば「牝臭とろける花芯」では主人公の感情も行動も内容も抽象的だが理解できる。それに比べてこの「赫い情事」は冒頭のカラオケシーンから終わりまで具体的で世俗的な事物を描いているのだが、よくわからない。瀬々監督にしては描写が具体的すぎる。それを狙ったのかもしれないが、カラオケとかそういう描写は嫌いだ。葉月蛍嬢のぎこちない歌は良かったけど。いいなぁ。
- 『KOKKURI こっくりさん』
脚・瀬々敬久 出・矢松亜由美 1997年5月公開
つまらんと思う。
- 『雷魚』
「黒い下着の女 雷魚」
脚・瀬々敬久 出・ 年月公開
未見
オリジナルビデオ作品
- 『生まれ変わるとしたら』
脚・瀬々敬久 出・あがた森魚,山本太郎 紀伊國屋書店製作
宮沢賢治をモチーフにした映像詩。例によって、水のイメージ鮮烈。瀬々作品のキーワードは水や海である。
海岸の賢治と妹の出会いのシーンが泣ける。
脚本参加作品
- 『海の駱駝』
「ドすけべ母娘」
監督・松岡邦彦 出・葉月蛍 年月公開
トークショーで、「撮ってる時はホントに好きになってしまう」と監督が言っていただけあって、今まで観た葉月蛍の出演作の中では彼女の魅力が一番でている。もちろん亀有のピンク映画祭で見た実物はめちゃくちゃかわいかった。
幼い頃父親に聞かされた果てしない砂浜を憧憬する少女。その父親の言葉で映画は始まる。母親は何人も男を連込む。SEXシーンをのぞく少女(そのときの葉月蛍の表情がいい!!)。母親の相手と寝て処女を失い、母親と争い(この喧嘩のシーンがすばらしい)、殺してしまったと誤解した少女は逃げだし海辺の町に辿り着くが力尽き倒れる。ホステスの女に助けられ、スナックで働く。「普段は暗いけど、客の扱いはうまいのよね」。やがて女の情婦の薬売り(この男の科白まわしがピンク映画っぽくないので好き嫌いが別れるところだろう)と関係を持つ少女。風船をお腹につめるシーン。薬屋は女の家から宝石類を盗む。「おまえ下りろよ。赤ん坊でも何でも勝手に産め」と言われた少女は、宝石類を男の手から奪い海岸へと駆け出す。それを追う少女を好きな少年。少年は少女を迎えにきた。「なんでここが分かったの?」「お前が話してた砂浜だろ、ここ」。母親の死んでいないことを知った少女は家に帰ろうとする。そのまえに宝石類を返そうと女の家へ。「おれが返してくるよ」と少年が家に入る。そこには少女の作ったガスの詰まった風船が。明かりを付けるためにライターの火をつける少年。風船に引火して大爆発。重体の少年を背負った少女が砂浜を歩く。「死なないで」唐突に画面が暗くなりエンド。
瀬々敬久脚本なので、当然海のシーンがある。
横浜寿町のシーン。冒頭のセーラー服のシーンが印象に残る。月の砂漠を歌う葉月蛍。突然終わるラストも瀬々脚本らしい。
瀬々作品はラストがめちゃくちゃかっこいいのだ。しびれる。
テレビ作品
- 『水の記憶・羽田私景』
監・撮影・瀬々敬久 年月放送
羽田の海老取川(漢字ちがうかも)の船上で生まれ、少女時代を船上で生活し、その後裏ビデオに出て捕まった女性を追い求めるドキュメント。瀬々監督の映画は実際の事件がモチーフになっていることが多いが、「課外授業・暴行」もこのような事件がモチーフにあったとは知らなかった。
GHQによる48時間以内強制退去も追求している、というよりこっちの方が主になってしまっているのだが。しかし、ラストでは、港を町をうろつく少女に、事件の少女をオーバーラップさせて終わる。
自主製作
- 『ギャングよ向こうは晴れているか』
監・撮影・瀬々敬久
ギャングと右翼少年と、両親の出会った一面菜の花の景色を探している少女モモの逃避行。音楽ほぶらきん。
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火ダルマGのページの日本映画に花束を!!第6回:「終わらないセックス」
映画日誌 1994年12月〜1995年11月:「どすけべ母娘」「すけべてんこもり」
映画日誌 1995年12月〜1996年11月:「赫い情事」
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