「夏の末」



 その海岸には白いベンチがただポツンとあった。



 18歳の僕は日向子と一緒にいれば、それだけでただ幸せだった。だから受験生でありながら夏休み中に免許を取り、日向子をドライブに誘った。
「どこへ行こうか?」
「あなたの好きな所へ」
「じゃあ、海。夏の末の海へ」
「ちょっと待ってて、わたし浴衣に着がえるから」



 海岸に着いたのは夜中だった。
 この浴衣は夜の闇に映えるようにあわせたの、と日向子は微笑み、僕の前でヒラリと1回転し、よろけて砂の上に腰をおとした。そして、そのまま仰向けになり星を眺めていた。
 僕は彼女の隣りに座り、両手を砂の上についた。日向子は大きな瞳で上目使いにベンチを一瞥し、ねぇ、あの白いベンチ、ペンキ塗りたてかしら、とつぶやいた。僕は後ろを向いて、そのベンチを見た。確かにそれは真っ白で、この寂れた海岸には不釣合いのように思えた。その時、突然彼女は上半身を起こし僕にキスをした。と同時に、僕の片手をとり、浴衣の身八口へ、そしてその中へと導いた。ぐにゃっとした感触。思わず手に力が入ってしまった。いったい僕は何をつかんでいるのか? それを理解するまで4秒かかった。この瞬間だけを心に抱いて一生生きていってもいいな、僕は真面目にそう思った。
 それから世が明けるまで、僕らは白いベンチに座り、普段は話さないようなことを話した。「あたし、これ以上年をとってだんだん醜くなっていくのに耐えられない」日向子はそう何度も祈るように呟いた。



 平凡な日々が続いた。



 僕は浪人し、日向子は進級して3年生になった。週1回日曜日にデートし、瞬く間に1年は過ぎ、僕は地方の国立大学、日向子は東京の女子大へ。
 電話の日向子の声が暗くなり始めたのは、僕が大学卒業間近の冬。やがて春になると、彼女は僕の前から姿を消した。彼女のアパートはもぬけの殻で、誰も彼女の行方を知らなかった。
 「僕と別れたいならはっきりと僕に言えばいいんだ。何もいわず逃げるなんて……」
 毎晩、そうつぶやき、他の男といる日向子を想像した。僕は日向子を恨んだ。一言何か言ってやろうと、がむしゃらに日向子を捜した。あの海岸にも行った。白いベンチもなくなっていたのが何故か腹立たしかった。



 ――結局日向子とは会えず、私は就職し、そう、もう20数年たった。だが、年月は若き日の思い出を際立たせてゆくだけだった。しかしそろそろそれも終わりにしたい。私は今日、日向子との思い出の海岸へ赴いてみようと思う。



 ……海は少しも変わらない。あの瞬間たしかに私は十八歳で日向子は十七歳だったのだ。そうだ、そしてあの辺りには奇麗なベンチが…………ある。空色のワンピースに麦藁帽子の少女がひとり座っている。
 私が近ずくと少女は顔を上げた。紛れもなく思い出の中の日向子の顔だ。違うのは、その目が涙で潤んでいるという、それだけだ。かつて日向子の涙を見たことがないことに私は気付いた。
「……日向子」
 麦藁帽子を飾る白いリボンが優しい風に揺れている。少女は私を見つめ
「覚えていてくれたのね……。今まで胸にためてきたあなたへの言葉が溢れてこぼれそう……。私は日向子。私を照らすのはあなただけ」涙が彼女の頬を流れた。
「日向子……。君は十七歳のままなんだね」
「夏の末のあの日から私の時間は止まったまま。私、怖くなって、あなたにも言えなくて、誰も知らないこの海辺の街に姿を消したの。毎日海を見てると安心した。私と同じだから……」澄んだ声で彼女が言った。
 なんてことだ。相談してくれればよかったのだ。私は昔からSFが大好きだったのだから。
 塩の匂いのする強風が吹きつけ、日向子の麦藁帽子が波打ち際へと飛ばされていった。



  翌日会社に辞表を提出し、退職金で小さな喫茶店をひらいた。その窓からは毎日太陽と月に照らされる海が見える。



 ある朝カウンターに手紙がおかれていた。
 ――わたし旅に出ます。だって、そろそろお客さんも私のこと変だと思い始めたでしょ。あなたと再会する前は毎日不安だった。でも今の私には帰る場所があります。だから旅に出ます。それに、あなただけ年老いていくのを見るのが悲しくなって……。手紙を書きます。心配しないで。では。


  あれからどれ程の時が通り過ぎただろうか。雄大な白い雲を見上げると涙が出てくる。波の音が意識の遠のくほど心地好い。変わるものは多いが変わらないものも多い。日向子からの手紙はもう整理しきれない。今日もうすぐ日向子は帰ってくる。逆光の中、相変わらず十七歳のままこの砂浜をかけてくるのだろう。目の前の海のように美しいままだろう。永遠に……「永遠」なんて人間には禁じられた言葉……なぜ日向子だけ永遠に…………もうどうでもいいことだ。私はもうよぼよぼのじいさんだ。……私の恋は永遠すぎた…………。


 私は、今、真っ白なベンチに座っている。









かなり青くさかったですね。笑ってください(^_^
「SFマガジン」96年9月号に選評が載っています。