(注)あまりにも単純で稚拙な文章で恥ずかしいのだが、1996年、大学入学当時に書いたもの。今はもうすこしまともなことを考えているような気がする。文中のリンクは途中でめんどくさくなったので挫折。ほとんどのアーティストのページはWebに存在するだろう。



 すべての音は音楽である。鳥の鳴き声や、人々の雑踏の話し声、川の流れる音、工場や自動車の騒音や、電車のガタゴトいう音も、普段は聞き流しているが、意識して聴くならば(偉人フランク・ザッパの定義に従うと、「額縁」を据えるならば)音楽になる。(夢野久作の哀しい短編小説「童貞」は、大地と大空とが直接に奏でる環境音の音楽に涙しつつ死んでいく音楽家の物語だ。)そして、それら人間の生活に深くかかわっている音楽を聴くと、その風景が頭の中に思い浮かぶ。

 祇園祭りの囃子の鳴り響く土地で生まれ育った人にとって、その囃子の音は夏祭りを想起させる。それだけではなく彼らは幼時から囃子とかかわっていることによる身体的な記憶の蓄積があるので、囃子を聴くと、幼い日々を昨日のことのように思い出すのだ。彼らにとって囃子の音色は過去を見させてくれるもの。

 同じように、私たちがむかし聴いていた音楽を現在聴くとする。するとかつてのその音楽を聴いていた時代がよみがえってくる。音楽で昔を見ているのだ。

 私たちが80歳になったときを想像してみよう。そして現在流行している音楽(たとえば相変わらず、Am→F→G→Cというコード進行で同じような曲を作っている小室哲哉の音楽 )を 80歳になったわたしたちが聴くとすると、それが流行っていた昔、つまり現在をその音楽で見ることだろう。

 たとえば、サウンドトラックを聴くということは、ほとんどの場合、その映画を見ているのと等しい。(サントラだけ聴いて映画は見ないという人も最近は増えているが……。)

 このように、音楽は聴くだけのものではない。かつて三島由紀夫は「自分は音楽を聞くことができずに見てしまう」といったが、音楽は、聴いてそして何かを見るものなのである。

 ではその何かとは何か?

 上で挙げたように、それは主に自らの過去である。また、過去に見たことのない虚構の風景を見るとしても、それはほとんどの場合、過去の1つ1つの体験などが組合わせられ紡ぎ織られたものだろう。荒木経惟は「写真はノスタルジーである」というような事を言ったと記憶しているが、その言葉に倣うならば「音楽はノスタルジーである」。

 ヒットチャートにのるような曲はノスタルジックなものの典型である。なぜならそれらの曲は型にはまってしまっている。さらに歌詞は聴き手の見るものを限定する。たとえば、松任谷由実の歌詞で目立つ、二度と帰れないあの頃の青春の日々というようなテーマ。ヒットチャートに乗らないような音楽でも、クラシックや(ベートーベンのハ調の曲の最後の和音の最低音はドに決まっている。聞き手は過去の習慣からそう予想してしまうし、ベートーベンは予想を裏切らない)、安易な環境音を使用した音楽などは、再生産でしかなく、ゆえに聴き手を安心させ、過去を見させる音楽である。

 しかし、僕が問題にしたいのは、非ノスタルジック音楽についてである。聴き手が未知なものを、ノスタルジックな表面ではなくその内奥を深層を見ることのできる、過去と断絶した音楽である。そのような音楽を僕は「瞑想音楽」と仮に命名することにする。心理学者のアブラハム・マズローが、どんな時に至高体験をしたかというアンケート調査をしたところ、回答の中で一番多かったのは、「音楽を聞いている時」と「性行為をしている時」であった。至高体験を導く瞑想音楽は前衛的な、いわば「無」から生じたような音楽にならざるを得ないだろう。過去に聞いた事のあるような音楽では、過去しか見えない。

 前衛音楽家で一番有名なのは、ジョン・ケージ John Cage だろう。少し音楽をかじれば必ずどの本にも登場する。彼が1952年に作曲(?)した「4分33秒」は、いろいろな解釈ができる点において哲学的である。(中学の音楽の時間に先生がこの曲のことをチラっと話してくれたのが、僕が現代音楽に興味をもったきっかけだった。しかし田舎のレコード屋に現代音楽があるわけがない。だから初めて東京の大きなレコードショップに足を踏み入れた時は感激した。)「4分33秒」とは、ステージにピアニストが出てきてピアノの前に座り、そのまま4分33秒のあいだ何もしないで去る、曲というかパフォーマンスである。(おもしろいことに「4分33秒」は何回も再演されている。この曲は一種のハプニングであるから、再演というのはかなり間抜けだ。前衛というと一般的には難解なイメージがあるが、本当はある種バカバカしくて楽しめるものなのだ。そのことは三浦俊彦の、芥川賞には落選したが、傑作小説「これは餡パンではない」河出書房新社刊を読めばよく分かる。)

 無音室に閉じ籠もれば、文字通り完全な無音だとケージは予期していたが、しかし実際入ると無音ではなく、自分の神経系の活動の音や血液循環の音が聞こえた。完全な沈黙など無いのだと気付いたケージは「4分33秒」を発表した。初演のとき聴衆はケージの意図が分からなかったが、注意深い聴衆には、木々をわたる風の音、屋根を打つ雨の音、そして聴衆たちの途方に暮れた呟きなどを聴くことができた。

お父さんはね、沈黙に聞きいるのが好きさ、もし沈黙が聞かれるものならばな。なぜって、その沈黙のなかには、蜜蜂がジュージューと揚げた大気の中に、野生の草花の花粉が落ちてくるのが聞こえるんだ。ほんとに、蜜蜂が揚げた大気の中をだぞ! じっと耳をすますんだ! あの樹々のむこうに、滝のような鳥の歌声がするだろ!(レイ・ブラッドベリ「たんぽぽのお酒」)

 ケージはエリック・サティErik Satie に影響を受けている。サティは「家具の音楽」という音楽を考えていた。これを説明すると、要するに家具のようにただそこにある音楽。音楽であると意識しないで聴く音楽。サティはこれを実現させるために苦労した。コンサートの休憩時間に演奏を始めると、聴衆はそれを聴くため、席に戻ってしまう。彼らに向かってサティは「おしゃべりを続けるんだ! 歩き回って! 音楽を聞くんじゃない!」とわめいたりした。環境的な音楽の成立は困難であると予想していたのか、27歳のとき彼は「ヴィクサシオン(いやがらせ)」という、1分前後のフレーズを840回繰返す、13時間にも及ぶ曲を作った。これを聴いた人の体験(引用したいのだが、何の本だか忘れてしまって思い出せない)を読むと、この「ヴィクサシオン」は瞑想音楽だろう。さらに、環境音楽でもありミニマル・ミュージックでもあり、アンビエント・ミュージックでもあるだろう。ちなみに「ヴィクサシオン」は、かつて日本でも演奏されたことがある。(そういえばアンディ・ウォーホールは、24時間ずっとエンパイア・ステートビルを撮った映画を上映したが、彼もサティの影響を受けているのかもしれない。)

 そして、サティとケージを継いで、1971年にカナダの現代作曲家である、マリー・シェーファー R. Murray Schafer がサウンドスケープ sound―scape という言葉を作った。サウンドスケープとは、作曲家が作った音楽作品から自然音、人間の出す音、機械音までも含む、音の環境総体のことである。彼はサウンドスケープ・デザイン、具体的には非人間的な騒音の排除を打ち出した。なぜなら、音風景は人間の日常の行動や、精神状態と深くかかわっているからだという。確かに1974年頃に、日本でピアノの騒音による殺人事件が起こっている。音楽が人間の精神に影響する事を、マリー・シェーフアーは科学的に説明した。また、マリー・シェファーに影響されて日本でもいろいろな試みが行われた。横浜駅近くの橋で、聞こえるか聞こえない程の音を流すという実験をしたところ、普段はさほど騒音を気にしていない歩行者が、自動車などの騒音の凄さに改めて気付かされた。最近の新聞には、シェーファーに影響され、各地の音風景を録音し、研究している人の記事が載っていた。

   マリー・シェーファーと同時期、ラ・モンテ・ヤング La Monte Young が、持続音(ドローン)によるミニマル・ミュージックを制作した。彼は「音の中に入る」ことについて、よく友人に語っていたという。ちなみに、ミニマルという言葉は、最少限の表現性しかもたないという意味で、もともと美術で使われていた言葉だが、一般的にはミニマル・ミュージックとは、(日本でも何回かオペラが上演されたりして、多分ミニマリストの中では一番有名な)フィリップ・グラスが作る、1つのパターンのくり返しが暫時変化するような反復音楽のことをさす。それ以外にも(例えば、ラ・モンテ・ヤングなどの曲は反復ではない)ミニマル・ミュージックと呼ばれるものはあるのだが、聞き手がミニマル・ミュージックだと感じるのなら、それはミニマル・ミュージックとなのだということで構わない。そもそも音楽に分類など必要ない。ラ・モンテ・ヤングの友人で、インド音楽(インド音楽は、演奏者自らと、その音楽を分かちあう聴き手たちを高い精神的境地へ導き、超越的、普遍的世界への合体を目指そうとするというもので、瞑想性が高い)に影響を受けたテリー・ライリーTerry Riley も、「in C」「シュリー・キャメル(祝福された聖なるラクダ)」などミニマル・ミュージックを発表した。アメリカにおいて、これらがドラッグをやりながら聴く音楽の定番だった事からも分かるように、ヤングやライリーやスティーブ・ライヒ Steve Reich 「6台のピアノ」などのミニマル・ミュージックは瞑想音楽だろう。

 ここで、日本の優れた音楽家である細野晴臣が、ミニマル・ミュージックについて語っているのをみてみよう。  

ミニマルというのは感覚を繊細にさせるための白紙状態を作り出す作業だったような気がする。ロックを聴いていると、そう言う繊細な聴き分けが出来なくなっちゃうから。一回感覚をフラットに戻して、何も起こらない音楽、音楽だけじゃなくて感覚も、感情を排した虚無的な、悪く言えば無感動状態のものに戻して、さらにその先へいくための準備だと思うのね。(『urウル NO.5』)

 彼が言うその先とは、後に述べる「アンビエント・ミュージック」である。  少し脱線するが、ライリーがインド音楽の影響を受けたのは有名だが、日本の雅楽に影響を受けたミニマリストはなぜいないのだろうか? 雅楽は日本的なミニマル・ミュージックだと思うのだが。

 ミニマル・ミュージックは色々な方面に影響を及ぼした。ラ・モンテ・ヤングの友人、ジョン・ケールJohn Cale はロックの方へ進み、ウォーホールやルー・リードらとヴェルヴェット・アンダーグラウンドを結成し1967年に1stアルバムを出した。それに例えば、ゲームのBGMはミニマルだと僕は思う。しかし、その影響が顕著だったのは70年代のドイツであった。ドイツで繰り広げられたシンセサイザーを使った「ジャーマン・エクスペリメンタル」と呼ばれる音楽には、瞑想音楽が少なくない。ポポル・ヴー POPOL VUH の「ホシアンナ・マントラ」や、タンジェリン・ドリーム TANGERIN DREAM の「フェードラ」「ルビコン」、カン CAN の「Future Days」、そしてクラウス・シュルツ Klaus Schulze の「Time Wind」などが代表的である。個人的にはゴング GONG 「YOU」がおすすめ。これらはテクノ・ミュージックのルーツでもある。例えば、YMO(思えばYMOの1stアルバムの冒頭のゲーム音は、あの時代のサウンド・スケープだ。坂本龍一は色々な要素をYMOに取り込んでいた。)は、ドイツのグループ、クラフトワーク KLAFTWEAKのポップ化である。そして、クラフトワークのルーツはミニマル・ミュージックである。

 一方、アメリカでは、ロキシー・ミュージックというロックグループで活躍していたブライアン・イーノBrian Eno が、サティの「家具の音楽」と、音を環境の一つとして聞こうとするケージの思想とを受け継いだ音楽作りを71年頃から始め、やがて79年に、アンビエント・ミュージックAmbient Music のシリーズNo1であるアルバム「Music for Airports」を発表する。アンビエントという語は、包囲するという意味。アンビエント・ミュージックは、環境の個別性を強調し、各々の状況の不安定な特質を浮きたたせる意図をもつ。環境を異化するのではなく内在するものを引き出す。また、聴く注意のいろいろなレベルに無理強いることなく対応しうる。無視することもかかわることもできる音楽である。マリー・シェイファーが音風景、サウンドスケープをデザインしようと能動的なのに対し、イーノは音風景を無理矢理変えるつもりはなく、受動的である。イーノの音楽から聴き手は何を見るのも、又は見ないのも自由である。彼の音楽はノスタルジックでもあり、瞑想音楽でもある。作曲家吉村弘は、イーノのアンビエントについて「ヨーロッパ的と言おうか、茫洋とした音の広がりが宇宙のかなたまで届くような、また一方、人間の細胞の微細な原子にいたるまで染み透ってくるような」と書いている。(ジャケット表記によると、最近のイーノは、AMBIENT ではなくTHINKING MUSIC へと移行している。)

 これまで、これが瞑想音楽だとしてきたのは一般的な歴史的なものであって、主に静かな音楽であるが、音楽は自分とのかかわりあいで聴くものだから、人それぞれ至高体験をした音楽は異なるだろう。灰野敬二〈アンダーグラウンドギタリスト〉や、ジョン・ゾーン〈破壊的ジャズ・サックス奏者で、現代音楽家〉の音楽が瞑想音楽になる場合もある。(この二人の共演をバックに巻上公一がジャックスの曲を歌っているという凄まじいものが、巻上公一「殺しのブルース」というアルバムに収められている。)僕の場合は、MAIN「FIRMAMENT2」(MAINのCDは今のところ新宿のタワーレコードでしかみかけない)やジョン・アダムス「水上の光」〈彼の作品などはポスト・ミニマルと呼ばれている。ミニマル・ミュージックが劇的変化を否定しているのに対し、ポスト・ミニマル・ミュージックはそれを積極的に取り入れている〉、カール・ストーン  Carl Stone「Mom's」〈最高に気持ち良いミニマル。矢野顕子の歌がサンプリングされている曲は、人間の一生を思わせる〉、佐藤聰明「リタニア」〈彼の作品をNHKで放送したら、それを聴いていた人が鳥に襲われたり、録音中に霊が出現して、その音がCDに録音されていたりする〉、セシル・テイラー CECIL TAYLOR「インデント」〈過激なジャズピアノソロ〉、アルヴォ・ペルト ARVO  PERT「タブラ・ラサ」〈現代音楽だが聴きやすい〉などだ。ちなみに、よりマニアックで現在進行形の環境音楽、瞑想音楽については、雑誌「ふらんす」(神奈川大の図書館にもある)で95年4月号から連載されている三浦俊彦「正しい恍惚からの醒めかた」を参考にするとよい。現代音楽については、PARCO出版の「現代音楽CD×100」に紹介されているものを聴けば、はずれはないだろう。

 聴こうと思わなければ演奏された音楽以外の音楽を聴くのは難しい。街を歩いていて、いわゆる一般的な音楽が流れてくれば、音楽が流れているなぁと認識する。しかしその流れてくる曲以外にも音楽は常に空間に存在している。何故なら、ジョン・ケージが証明したように、完璧な沈黙というものはないのだから。退屈な講義のときにでも、一瞬一瞬つねに流れている音に耳を傾けてみて欲しい。さらに、できれば聴いた事のない、今までに紹介したような音楽もぜひ聴いて見てほしい。僕の体験からすると、その手の音楽は寝ぼけながら、または酔いながら、電気を消して聴くと、変な気分になっておもしろい。