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「マンガ批評のためのノート〜エロマンガを足がかりに」
これは青林工藝舎の発行するマンガ雑誌『アックス』の誌上で毎年募集している「マンガ評論新人賞」(銓衡委員:呉智英村上和彦米沢嘉博)の第2回に応募したものです。銓衡結果は大賞・佳作なしで、この「マンガ批評のためのノート」が参考作として選ばれ、vol.14に掲載されました。原稿料ということで呉智英氏から、たしか5万円頂きました。
執筆は1998年末から1999年にかけてだったと思います。東浩紀氏による諸論考がある現在ではすでにもう用無しの文章ですし、読む人が読めば誰と誰に影響を受けているかすぐに分かってしまうような浅さがありますが、23歳当時の未熟な力を振り絞って書きましたので、(「振り絞ってこれかよ!!」)、どうぞ時間のある方は読んでみていただければと思います。そして好意的に深読み、というかグッチョングッチョンにしていただければ幸いでございマス。
では、どうぞ。




 大体においてマンガなんてものは、読んで、ただおもしろかった、それでおしまい。それだけで十分。ひまつぶしの娯楽として絶え間なく読者に消費される商品だからこそ、マンガは今日まで生き延びた。坂口安吾は言っている。「小説はたかが商品ではないか。そして、商品に徹した魂のみが、又、小説は商品ではないと言いきることもできるのである」(坂口、一九九一)。

 然しここ数年、マンガ産業は斜陽化の傾向にあり、それに従ってマンガの外からマンガを回収しようとする動きが目立ってきた。マンガ評論の本が数多く出版され、専門雑誌が創刊され、さまざまな雑誌・ムック類がマンガを特集した。また都立美術館で開催されたマンガ展を代表として、マンガがファインアートとして取り上げられることも多くなった。アカデミックな場でマンガが論じられるようになり、例えば一九九八年の美術史学会のテーマはマンガだった。「マンガ研究者」という肩書きも立派に通用するようになってきている。

 然しそこでマンガというとき、エロマンガは排除されており、外部として隠蔽されている。実際、国会図書館にもマンガ図書館にもエロマンガ雑誌の所蔵は少ない。

 エロマンガは相対的に悪場所なのである。マンガは既にそのような場ではないが、エロマンガは「エロ」であるが故に、依然として快楽原則の支配する暗部である。

 たしかにエロマンガなんて屑かもしれない。同じような話が同じような絵で繰り返されているだけにみえるかもしれない。然しそれはどの分野でも同じことだし、むしろそのような絶え間ないマンネリズムの消費のなかでこそ、突出した表現が生まれることもあるだろう。SF作家のスタージョンは「いかなるジャンルにおいても、その九十パーセントは屑である」と言ったが、彼の主眼は九十パーセントの側にあったのである。

 物事をみていけば光と闇が相対的にあらわれる。そしてもし、物事を正確に理解しようとするならば、まず影をみることだ。それは当然、近代イデオロギーがしてきたように、光の立場から闇を暴くことではない。また闇の中にどっぷりとはまりこんでしまうこと、すなわち無条件に「○○の作品やキャラクターが好きっ!!」と主張することでもない。それは闇に惹かれながらも、踏みとどまった地点で、闇に寄り添って記述することでなければならない。そこで闇はその局所性を超えて、光を照射し返すことになるだろう。

 人によって表現される以上、マンガに性的表現が現れるのは当然である。ただしこれを、人間の生が性と密接であるからという紋切型に短絡させてはならない。そのような本質主義的な言説こそが、性を権力と共に実体化させ、性と生を密着なものとして構築するのであって、そのような紋切り型はトートロジカルな物言いにすぎない。

 性はそれ自体で存在するような確固とした実体ではない。私たちが性と言うとき、決まってそれは性的な物質や行為を指している。よって「性とは何か」と性そのものを問うことは、むしろ性を見えなくさせる。表現者が性を表現のモチーフにおくのは、現実に性という実体があるからではなく、反対に、ないからだ。決して中心の核へ到達できないからこそ、私たちは、芸術表現として、あるいは愛という観念、性器という身体器官、セックスという行為を通じて性を希求し、性へと駆り立てられ続けるのだ。

 性なるものは存在しない。あるのはただ、性的表現である。然し例えばマンガの性的表現を、SMもあるスカトロもあるといったふうに羅列していくことに意味はない。それは性を考えるために性器を羅列することと同じようなものだ。女性器それ自体に価値はない。性的なものから性を抽出することはできない。男性が女性器に欲情するのは、それが貨幣のように世界に流通していることで、性的な通念を帯びているからだ。ここでみるべきは流通であり、性が性器と結びつく仕方だ。

 同様にエロマンガで問題になるのは、性が「マンガ表現」として現れる仕方であり、「マンガ表現」の結果としての性である。つまりエロマンガを正確に把握するためには、「マンガ表現」を軸にして性をみていかなければならない。



 戦後「エロマンガ」註1)の隆盛を通時的に眺めてみて興味深いのは、ある時期を境に、その「絵柄」ががらりと転換していることである。

 エロマンガの歴史を乱暴に整理すれば、およそ二つの時期に分けることができるだろう。まず『COM』での宮谷一彦青柳裕介らの作品からエロのみを抽出し、実話雑誌記事の付録としてエロ劇画を発表し始めたダーティ松本らを伏流とし、エロ劇画誌を謳った『エロトピア』の創刊、そして三流エロ劇画ブームで頂点に至る「エロ劇画」の時期。一九七〇年前半から一九八〇年あたりがこれに相当する。

 第二期は八十年初頭、アニパロをも含めた「ロリコンマンガ」の流行を起点とする。エロ劇画と異なり、その舞台は主にコミケだった。そしてロリコンマンガがより技術的に洗練され、現在の「美少女マンガ」につながる。

 このふたつの流れは、連続的発展ではない。エロ劇画の読者・作者と、ロリコン/美少女マンガのそれは、全くといってよいほど異なっているし、作品の印象も大きく隔たっている。何よりもエロ劇画は「劇画」註2)で描かれ、ロリコン/美少女マンガは「アニメ絵」で描かれている。エロ劇画とロリコン/美少女マンガの断絶は、この「劇画」(図1)と「アニメ絵」(図2)という「絵柄」の断絶として、何よりも現前しているのである。ここから始めよう。

 言うまでもなくマンガの固有性は絵、コマの形態/機能、描線、特殊効果などの「マンガ表現」であり、なかでも圧倒的な要素は「絵柄」である。「絵柄」を一瞥すれば、作者名や物語展開をかなりの程度で予想することができる。これはマンガの読み描きが、慣習的反復という経験的事柄に依っており、「同一性と模倣性による支配のもと『コンテクスト』がほとんど無媒介的に共有されうる」(斎藤、一九九八)というハイコンテクスト性が、マンガの特徴だからである。例えばコミックマーケットのカタログを読み進めるとき、意識的にせよ無意識的にせよ、私たちは、たった数センチ四方の枠におさまるイラストから、そのサークルに関する莫大な情報を受け取り、瞬時に分析している。そのような能力がなければカタログを「読む」ことはできない。これはマンガにとって「絵柄」がどれほど重要であるかの証明である。

 然しそれがあまりに自明だからだろうか、マンガ批評というともっぱら内容分析に偏りがちであり、「絵柄」を含む「マンガ表現」の次元は、意味内容に従属するものとして軽んじられてきた。批評対象に対する反省的視点の欠如したそれらをマンガ批評と呼ぶべきではないだろう。「マンガ」批評は、まずマンガという領域を普遍的なものとして他と区別すること、そのための条件を問うことから始められなければならない。つまりマンガはいかにして成立するか、私たちは何故マンガを読めるのかを考察した呉智英や夏目房之介、古くは草森紳一石子順造の仕事によって、マンガ批評は他の分野から独立したひとつの批評として成立したのである。

 中でも夏目房之介は、「マンガ表現」から作者の「思想」を読み取る「表現論」を提唱した。もちろん夏目の言う「思想」は、かつて左翼イデオローグが勝手に読み込んだ思想のたぐいではない。彼らは作品から「思想」を読みとったつもりで、実はもとから在る思想を当てはめていたにすぎない。表現論はそのような恣意性に基づく外部を極力排除し、客観性を志向する。「思想」は外部ではなく内部から導かれねばならない。これはマンガ批評を大きく転回させた註3)。

 夏目は言っている。「作家の『思想』なんつっても、技術を含む表現が、理念を可能にしなけりゃ意味がない。(中略)描線やコマ構成っていう表現が、具体的に理念を表現し得ていなければ、評価にあたいしない」(夏目、一九九八)。

 ここで批判されているのは、発生論的な順序だ。私たちは「思想」というものを、「マンガ表現」という手段から区別された、独立した実体であると思いがちだ。だが「思想」は、「マンガ表現」以前に、「マンガ表現」に先立って存在するものなのではない。そのような順序は誤っている。「思想」は「マンガ表現」の前に先行して存在しない。それはあくまで、「マンガ表現」に内在しているのである。

 私たちの文脈に沿うよう、「マンガ表現」を絵に限定しよう。「絵柄」以前に「思想」があるのではない。「思想」は「絵柄」によって規定され、遡及的に生まれる。つまり「思想」はあくまで「絵柄」の結果として、「絵柄」の内に現出しているのである。

 例えば「劇画」で描かれるべき「思想」が予め在るから、それが「劇画」で表現されるのではない。逆である。「劇画」として表現されることにおいて、その中で「劇画」で描かれるべき「思想」として現れるのだ。つまり「思想」は、「アニメ絵」ではなく「劇画」で表現する/されているということ、そのような「絵柄」間の差異によって立ち現れる。

 然し「アニメ絵」と「劇画」との違いは、還元してしまえば線の濃密度、圧縮度、描画技法の違いでしかない。線の集まりという点ではどちらの「絵柄」も同じであり、そこにあるのは単に線の次元の違いだ。だが実際、私たちは「アニメ絵」と「劇画」を、線の違い以上の何らかの違いとして認識し、このふたつを明確に区別している。同じ物語でも「劇画」で描かれるのと、「アニメ絵」で描かれるのとでは、全く「思想」が異なってくるはずだ。

 そこには「絵柄」間の差異を支える根拠としての「規則」があるだろう。「アニメ絵」を「アニメ絵」として、「劇画」を「劇画」として成り立たせている規則。そのような規則が、私たちに「絵柄」以前、すなわち表現する以前に、何か絵では表せない「思想」のようなものがあり、それが「絵柄」を決定しているという逆立を引き起こす。

 米倉けんごは『ドッグスタイル』(司書房、一九九八)において、兄妹の近親相姦、妊娠、兄の自殺、妹の出産という出来事を、美少女マンガとしては珍しく、連続した事象として捉えた。澁澤龍彦はポルノグラフィーの特徴として「妊娠の忌避」を指摘したが、事実、妊娠の導入によってこの作品はポルノグラフィーから逸脱していく。つまり「思想」が社会現実的な軋轢密度を増すに従って、絵柄も「アニメ絵」調から「劇画」調へと変化していく。

 このような「絵柄」の変容は、ある「思想」には「「アニメ絵」」が適当であり、ある「思想」には「劇画」が適当であるというような同一性を保証するものとしての、漠然とした、然し確固とした、見えない規則の存在がなければ不可能である。

 この規則の下では、その外へ出ようという試みさえもが、逆にそれを補強してしまうだろう。石森章太郎の実験作『ジュン』について石子順造が「センスの中の出来事にすぎない」(石子、一九六九)と言っているのは、そのような事体を指している。

 私たちは既に、規則を抜きに読むことはできない。抒情とか情緒とかいったものは、この規則に依っている。私たちはまた、規則を抜きに表現することもできない。表現の前提には既にして規則が存在している。

 ただしここで規則は絶対的な力を持つものではない。なぜならもし、全てが規則によって支配されているのならば、そこにもはや規則が存在する必要はないのだから。他ならぬ規則の存在こそが、それへの反抗―― 新しい表現の可能性を指し示している。それは石森が目指したような規則の外部にではなく、規則のなかに、規則からのずれとしてあるだろう。批評が新しさ、つまり現在というものを発見するためには、まず規則を徹底的に対象化しなければならない。

 ウィトゲンシュタインは次のように言っている。「美の規則を十分に記述するということは実際、ある時代の文化を記述することを意味する」(ウィトゲンシュタイン、一九七七)。よって「劇画」と「アニメ絵」の規則を明らかにすることは、それぞれの時代の文化を明らかにすることでもあるだろう。



 一般的に「劇画」は写実的でリアルなものであり、「アニメ絵」は非現実的でリアルでないと言われる。「劇画」の愛読者は、それがリアルでないという理由で「アニメ絵」や記号絵のマンガを拒絶することもあるだろう。

 ここで言われるようなリアルの尺度は、「絵」とそれが指示する現実とがどの程度似ているかであり、このふたつが近似であればあるほど、よりリアルであるとされる。ここで「劇画」は、全く記号としてしか機能していない記号絵(手塚治虫や横山光輝に見られる)とは一線を画しているように見えるかもしれない。然し、通低に現実があるという点で、「劇画」も記号絵も同じなのだ。それらは共に現実の表象――背後に現実が想定された表現であり、違う仕方だけれども共に現実を志向している。

 だがもし「劇画」が完璧に現実を表象しえたとして、そのような絵はもはや「マンガ表現」としては機能し得ないだろうし、また記号絵も「劇画」も、それが記号として安泰してしまうのならば、「マンガ表現」としては堕落でしかない。

 つまり或る絵が「マンガ表現」であるからには、現実の表象であることから逸脱しているような線がどこかに含まれているはずだ。そしてそのような部分こそが、マンガに固有の〈リアル〉なのである。記号であることに収まらない過剰な部分、「絵」それ自体が独立して持っている快楽のような部分。ここで重要なのは、絵の背後にある不可視の現実ではない。描かれた絵という可視的な表面であり、そしてそこに現れた現実からの余剰である。例えば、こまわり君の唐突な変身、杉浦茂が描くキャラクターの変幻自在な流動性、ふくしま政美の筋肉、鈴木翁二の闇夜の線、ペンネームは無いの肉汁、上連雀三平のペニス、矢追町成増しろみかずひさ蜈蚣Melibeの肉体、等々。

 そのように〈リアル〉を定義すれば、美少女マンガに見られる「アニメ絵」が最も表面的で〈リアル〉であり、対して一般的な「劇画」は〈リアル〉の度合いが低いと言える。だから美少女マンガの読者が、絵そのものに価値をおくのに対して、エロ劇画の読者は、絵の背後にある現実に価値をおく。それは両者の雑誌における読者ページを比較すればよく分かる。美少女マンガ雑誌の読者投稿は、文章に必ず絵が付随している。というよりも、むしろ主役は絵のほうである。エロ劇画雑誌の読者投稿は文章のみだ。

 エロ劇画の代表的な雑誌『漫画エロトピア』の一二号には、以下のような読者投稿が載っている。

「いま欲しい雑誌が出た。感動。物価狂乱、企業横暴、政府無策で、人間の連帯なしのこの時代に、我々庶民は何を叫べばいいのだろう。こんな嫌な時代を逃避させてくれるものが『エロトピア』には盛られている。いやな時代は明日へのエネルギーとは、貴紙の一貫した企画にあるような、人間のヒダにふれてくるものにあるのだ」。

 この一つの声で、エロ劇画の読者を代表させるのは安易かもしれないが、然し「劇画」はこのように過剰に読み込まれるのだ。

 当然次のような反論が予想されるだろう。「これは一九七三年という時代の過剰さなのだ」と。果たしてそうだろうか。

 一九九八年の『ビックコミックスペリオール』を見てみよう。「エロ劇画のマンガ家で、池上遼一に足を向けて寝られる人は少ない」(塩山、一九九八)と言われるように、エロ劇画に多大な影響をあたえた池上遼一の作品に寄せられた声である。

「……やっぱりこれは僕の中にある大衆性みたいなもの、そういう今という時代を作っている人間の集団意識みたいなものが、(このマンガの主人公を――引用者註)必要として、リアルだと感じ取っているのでしょうか。……(主人公の行動は)あたかも合併を繰り返しながら肥大化していくどこぞの企業に対するアンチテーゼにもとれ痛快です……」。

 このように「劇画」の線は、今も昔も過剰に読み込まれがちなのである。ここでは「庶民」や「大衆」といった単語が臆面もなく連ねられている。然しそのような声を寄せる読者でも、日常生活において常に自らのことを大衆と意識しているわけではないだろう。劇画の読者は劇画を読むことによって大衆になる。大衆だから劇画を読むのではなく、劇画を読むから大衆なのだ。

『漫画エロトピア』で人気を博した榊まさるのマンガの主人公は、ほとんどが肉体労働者の男である。下層ヒエラルキーの労働者に、例えば主婦が犯される。これが執拗に繰り返される。主婦も労働者も、社会の中でカテゴリー化された役割を担っており、明確に階層として分断されている。階級闘争は常に性的闘争のアレゴリーとして語りうるが、ここでは直接的な性交が階級闘争の契機である。

 同じく『漫画エロトピア』第七号に掲載された森口史朗入倉ひろしの「恐喝」という短編では、アメリカ兵に妹を犯された兄がその復讐を果たす。ここでの兄の暴力は国家に対する暴力(F・ファノンに従えばforceではなくviolence)である。このようなアメリカに対する憎悪、その裏返しの憧憬という、国家間に根差した「思想」は「劇画」でしか表現できない。「アニメ絵」の時代の国家的な「思想」は、例えば、新体操会社『ICBM』(大陸書房、一九八七)のように、政治を記号的に解体し、ギャグとして構築する方法によってしか得られない。ただ森山塔のいくつかの作品は、どちらかというと「アニメ絵」で描かれているが、アメリカの影のちらつきを読み取ることができる。彼の絵柄には「劇画」的な線が残存しているのだ。現在の森山塔=山本直樹の絵柄も、美少女マンガにみられるような「アニメ絵」ではない。彼が「アニメ絵」の方向を追求しなかった理由として、彼の出身が劇画村塾であること、まだメジャー/マイナー、主流/アングラの二極文化対立構造が成立していた中で、唐十郎三上寛フランク・ザッパの側に惹かれていたこと、一時期、福生の米軍ハウスに住んでいたことなどが挙げられるだろう。そのような現実性こそが内面化し、線描に顕在化するのである。

「劇画」の背後には、「社会」が潜在する。「劇画」の線のざわめきは社会のざわめきである。「劇画」の身体は、社会的な階層・階級に根差し、社会に帰属している。また、同時に帰属は社会への異和、社会からの抑圧によって可能である。「劇画」のエロは、この社会的抑圧や、階級的挫折、葛藤に関係する。

 劇画が呼びかけるリアルは、そのような隠された次元である。背後にある社会性、そこから敷延される自意識や内面。言うまでもなく、そのような背後の読み込みは、読者の思い込みの産物でしかない。然しそれを発見したと転倒するとき、読者はリアルだと感じるのである。

 もりしげ「学校占領」(『蹂躪』桜桃書房、一九九八)は、学校を性的に占拠するテロリストたちの物語だ。テロリストたちは次々に生徒を犯していく。これは権力の場を性的に転倒させる試みであり、革命とはつねに性的解放の向こうにあるように見える、という点では正当である。だがもりしげの絵柄は「アニメ絵」なのだ。「アニメ絵」は「劇画」のようにリアルではない。革命を革命たらしめるような切実さがない。逆に言えば、ないからこそ「アニメ絵」はときに暴力的な物語を要請するのである。

 先述したように、「アニメ絵」の〈リアル〉は、「劇画」のリアルとは逆のベクトルを志向している。「アニメ絵」を詳しくみていこう。図3はロリコンブームを引き起こした同人誌の絵柄である。顔よりも大きい巨乳などは描かれていない。スクリーントーンがほとんど使われていない。つまりこの時点では、「劇画」的なリアルが残っており、まだ現実性に立脚している。だから社会的に禁止されているロリコンを描くことへの葛藤が見られる。「劇画」的なエロが残存している。現実性からの逸脱は、あくまでも異生物や触手という物体に限られており、物体を描く線としては現れていない。これがアニパロの導入により、アニメキャラの要素が入って、初期の「アニメ絵」(図4)となる。

 優れた同人誌ライターであった富沢雅彦は、このような「アニメ絵」によって描かれた初期のロリコンマンガに、社会変革への意志 ――既存の価値体系が強制する男性性への「齟齬感」(富沢、一九八五)を見出した。二四年組と呼ばれる少女マンガ家たちからの影響もあった。然しやがてロリコンマンガも男性的な競争原理へと陥り、行き詰まってくる。そこで絵そのものへと視点が移動していき、絵を描くことそれ自体が自己目的化し、そうした自己言及の結果として、現在の「アニメ絵」(例えば図5)がある。

「マンガ表現」としての絵は、記号であるという点で限界付けられている。だがこのような内的な限界こそが、無限の差異を生み出すのだ。限界によって保証されなければ無限は存在しえない。例えば、「女性」という指示対象があるからこそ、果てしなく、無限のバリエーションで女性表象を描き出すこともできる。記号であるしかないという点で「マンガ表現」の絵は閉じた体系であるが、それ故に差異が無限に突き詰められ、それが極まって突出し始めた段階が「アニメ絵」なのである。そのような「アニメ絵」において、欲望の対象はもはや背後の指示対象ではなく、絵そのものである。1ROOの絵(図5下)を見れば分かるように、ここでは女性という現実的な対象が描かれているが、線分としては全く現実的でない。ここで志向されているのは、リアルでなく〈リアル〉であることだ。それは背後の現実を完璧に表象することへの執着ではない。何を描くかではなく、どのように描くか。いわば描くことそのものへの転換である。

「アニメ絵」は情報量が圧倒的に多い。「アニメ絵」の発達は「スクリーントーンの使用率とかなり密接に関係している」(糸山、一九九七)。「劇画」を主に構成しているのは線の重なりであって、スクリーントーンは、光や影をリアルに表象するための補助的役割にすぎない。対して「アニメ絵」では、スクリーントーンも主役となり、〈リアル〉な表現を生み出している。スクリーントーン、画材、彩色など、幾多のレベルで情報が詰め込まれているのが「アニメ絵」であり、「アニメ絵」は「劇画」よりも情報化されている。『コミッカーズ』や『色彩王国』に代表される、描画技術に関する情報誌は「劇画」の時代には成立しない。

 多くの美少女マンガ家が『コミッカーズ』に登場することからも分かるように、美少女マンガというジャンルは、絵に先鋭的である。スクリーントーンの使用法や、セックスの見せ方について美少女マンガは長けている。マンガ家の多くは古くからパソコンを導入し、デジタルによる描画、彩色の可能性を追求している。現在では、CGマンガ専門の雑誌(『COLORFUL萬福星』ビブロス、一九九八〜)も発行されている。絵の最先端は、間違いなく美少女マンガなのである。美少女マンガ家は、絵を描きたいからこそマンガを描くのだ。

 ところで絵を習得する始まりは、全て模倣である。「アニメ絵」は自己言及から始まる。「アニメ絵」にとって、その絵はいつも絵についての絵なのである。そのような差異の反復の結果、「アニメ絵」は円滑に「動き」を表現するための簡略記号ではなく、いわば動かないオブジェと化しつつある。近代マンガはコマ運びによる「動き」によって、物語を表現してきたわけだが、「アニメ絵」はその「動き」を放棄する。「動き」によってキャラクターは「キャラ立ち」する。従来のマンガ指導の定石は、いかに「キャラ立ち」させるかということだった。例えば小池一夫劇画村塾で教えていたのは「キャラ立ち」の技法だという。然し「アニメ絵」において「キャラ立ち」はさして重要ではない。「アニメ絵」において不可避に生じるのは「キャラ萌え」であって、そこで重要なのはキャラクターそのもの、つまり絵そのものである。「完全にマンガというものがストーリーから『モノ』へと移行してしまった」(村上隆、一九九八)。ここに至ってマンガはようやく、マンガ固有の問題にぶち当たっている。新しい才能は、ここに佇むことなしに生まれないだろう。もう少し迂回する。

 美少女マンガ誌は中綴じが多く、その形態上、ひとつの作品について必ず四の倍数ページでなければならない。そこで大方の雑誌は一作品につき一六ページとなる。そうするとページ配分がほぼ決まる。何ページか前振りがあって、少なくて五ページ、多ければ十ページ以上がセックス描写に費やされ、最後の一ページで落ちがついてお終い。このパターンが一番多い。このようなページ制約の上で重要になるのは、まず表紙の扉絵、そして始めの一コマである。そこで物語の舞台と、主人公の姿が大きく描かれる。「同じような制限をもつ(エロ)劇画が、そのことによって物語の世界への誘いを意図しているのに対して、美少女コミックは、部外者の排除をもくろむ」(糸山、一九九七)。少女の髪型や服装、耳の形、瞳の描き方などによって読者は峻別される。部外者は排除される。高雄右京『REIN』(コアマガジン、一九九八)から、表題作の一ページ目を見てみよう(図6)。ここから物語の枠組程度は理解できなければならない。異世界もの、少女は妖精か何かだろう、彼女が下界へ降りてきて、少女を見つけて戦士にして悪の魔物と戦わせる。主人公はその少女だろう、ということが、分かる人には一目で分かる。「アニメ絵」はこのような読者によって成立し、維持されている。ここで読者は解釈共同体なのである。

 美少女マンガ雑誌の一番の特徴として、巻末近くに平均して十ページ程の読者による投稿ページがある。イラスト投稿者からマンガ家デビューした作家も多い。投稿は常連が多く、なかでもペンネームが「三峯徹」という投稿者は、ほぼ全ての美少女マンガ誌に毎月投稿しているので有名である。イラスト投稿者には女性も多い。「アニメ絵」は、「劇画」のエロ ――階級や性の衝突――とは異なり、いわば「絵」そのものへの欲情であり、ここで読者の階級差や性差は、ほぼ問題にならない。斎藤環は、「想像的に見いだされた女性こそが女性そのものであり……セクシャリティのベクトルが、性差にかかわりなく『女性身体への表象』へと向かわざるを得ない」(斎藤、一九九八)ことを明らかにしている。レディースコミックのセクシュアリティが、男性ではなく女性の身体へと向かっていることでもそれは分かる。だから美少女マンガに女性読者/葉書投稿者/作家がいても不思議ではないのである。

 葉書は一種のコミュニケーション・ツールであり、投稿者は葉書によって互いにコミュニケーションをとっている。そこはひとつのルールにのっとった共同空間である。投稿葉書の横には投稿ページ担当者のコメントがあり、「久しぶりの投稿です」と書かれた投稿葉書には、「お久しぶりです。元気だった?」という担当者コメントがある。このような担当者の気配りによって、投稿者の帰属意識が培われ、投稿ページという共同体が維持されていく。例えばこの読者ページが現実空間に拡大されたものがコミケ註4)である。コミケの規模拡大と、「アニメ絵」の増殖とが、期を一にしていることは偶然ではない。「アニメ絵」がコミケなどの「おたく/オタク」的共同体を生成させるのである。

 「アニメ絵」は、情報と知識の集積である。それらは目に見えるようにしか表現され得ないなので、「アニメ絵」は徹底して可視化を目指し、表面は過剰になる。そこで「アニメ絵」のコードを読み取り解読する共同体、情報と知識を交換し、「アニメ絵」を支える共同体が必要となる。「アニメ絵」は自らのために解釈共同体を発生させるのだ。

 このような共同性は、物語のレベルにおいても顕在化するだろう。すえひろがり陽気婢は新たな共同体を模索しているようにみえる。また「劇画」のアイデンティティが、社会関係を内面化していることによって、ほとんど揺らぎがないのに対し、「アニメ絵」は社会的なものから切れている故に、アイデンティティ・クライシスに陥る。そしてそれは、共同体内部における性的なつながりによって解消される。しのざき嶺『ブルー・ヘヴン』(三和出版、一九九七〜九八)、秋葉凪樹『空のイノセント』(コアマガジン、一九九七〜)、残念なことに未だ単行本化されていないが、大山田満月「春のおとずれ」(『アリスの城』白夜書房、一九九三)、ナヲコ『DIFFERENT VIEW』(コアマガジン、一九九九)、桜井パピコ『ここにキスして』(東京三世社、一九九九)などが描くのは、そのような私的な領域である。描画の技法化により、現実の表象であることから逃れ“モノ”化した「アニメ絵」は、社会性を捨て、空虚であること、そのような軽さ、不安定さによって、或る私性を獲得したのである。

 ところで、前述した作家の作品においてもでもそうだが、美少女マンガにおいては、性科学なら「変態性欲」と呼ばれるような、様々な性的表象が描かれている。巨乳、フタナリ、ショタ、シーメール、トランスセクシュアル、女装、フリークス。問題は、それらが描かれているということではなく、なぜそれらが「アニメ絵」でしか描かれないかということだ。「劇画」においては、せいぜい行為の過激さ(SMなど)のみだった。「アニメ絵」においては、その身体を織り成す線分それ自体が過激(過剰)になる。これは何故か。

 絵とは何かを代理表現するものとされているが、「アニメ絵」は、絵を描くことそれ自体の自己目的化の結果、絵の向こうに隠された記号内容の現実性が稀薄となり、内部が空白になる。表面のみが突出している註5)。そのように表面化された「アニメ絵」は、直接的なものによって深層を回復しようとするだろう。空白である「アニメ絵」は、自らを支え位置づけるために、性を直接的に欲望するのだ。そこで「アニメ絵」は「社会」と切れているからこそ、現実的な肉体感覚の閾を超えた性が描かれるのである。「アニメ絵」の性は、アプリオリの前提ではない。現実という既存観念の網の目に捕らわれず、純化され、そうして、新たに再発見されるものだ。



ショタコン」、すなわち「ショータロー・コンプレックス」という言葉は、八〇年代初頭に生まれた。「ショータロー」は、『鉄人28号』の金田正太郎である。彼は常に半ズボンをはいている。「ショタ」ブーム発端のアニメ、『魔人英雄伝ワタル』(一九八八年)の主人公ワタルも、半ズボンをはいた背の低い男の子である。半ズボンの似合う、かわいい少年同士を主人公に恋愛を描くのが「ショタ」なのである。

 男性同士の恋愛を描くものに「やおい」がある。やおいの中でも耽美系の絵柄と「アニメ絵」系の絵柄とに分類される。「アニメ絵」で且つ少年同士のやおいがショタであるが、もはやショタはやおいから分化し、独自のジャンルとなっている。

 ショタに二種類あり、女性が描く女性向けショタ、男性が描く男性向けショタがある。共通点はどちらも「アニメ絵」で描かれていることだ。ショタは「アニメ絵」で描かれねばならない。

 女性によるショタはやおいの延長であるが、男性によるショタの起源を遡ると、例えば雨宮じゅんが描いていたような、女装させられた美少年が女教師にいじめられ、少年がその受動的な性の喜びに目覚める美少女マンガがある。やがて、社会的な身体と切れた「アニメ絵」という表面性によって、ふたなりやシーメールの描写が可能となる。もはや女装は必要がない。ここで、性的に「受け」である少年の性が描かれるようになり、行き詰まっていた美少女マンガ界がそれに目を付け、やがて一九九七年のショタブームへと至る註6)。

 もうひとつ表現形式から言えるのは、劇画から美少女マンガへ至る過程で、セックス場面で男性が描かれる率が少なくなっているということがある。劇画では男女のセックスの場面で、必ずといっていいほど、犯す男がはっきりと描かれている。美少女マンガになると、描写的により女性を前面に押し出すために、男性がはっきりとは描かれなくなる。男性が女性に覆い被さる形になる場合、劇画では男女とも描かれるが、美少女マンガでは女性しか描かれない。後者においては、いかに女性の絵を「見せる」かに比重があるからだ。よって男性の絵はほとんど消える。そこで生じる可能性は、作者/読者の、男性ではなく女性への感情移入ではないだろうか。美少女マンガ家のたかしたたかしはこう言っている。「……例えば女の子のキャラを描いている時には、気分として女の子になりきったりすることがあって、それって変だよな、と思ったりして。それは同時に自分の中に女の子的要素があるってことを、マンガを描くってことを介して確認するわけで、それっておもしろいな、とも思うんですよ。……」(『SEXYコミック大全』)。そのような感覚がショタを可能にする。すなわち受け身の男性性である。

またショタブームの要因として、社会的な性的抑圧が徐々に解除されてきたことが挙げられる。ショタが典型的な「アニメ絵」で描かれることが多いのは、「アニメ絵」が「劇画」と違って、社会的抑圧から切れているからである。「アニメ絵」は支配的な価値体系の外にある。そこでは男性の受動的な性が、抵抗なしに受け入れられ、「受け」の気持ちよさが素直に表現されている。

 ショタ以前の男性性は、能動的なセックスを強要する。然しそもそも、人は本来、そんなにセックスをしたくないのではないだろうか。人は動物が持っているような本能が壊れているので、常に発情状態にあるということは、その逆も成り立つ。人はセックスをしなくとも生きていける。深沢七郎は言っている。「性欲なんて、あれも一種のごまかしでね。おもしろいことがないから、それを一生懸命やってるんじゃない?」(深沢、一九九三)。したくないけれども、しなくてはならない。そのズレを埋めるために、さまざまなメディアがヘテロセクシャルな性欲を煽り立ててきた。男性の能動的な性欲が本来的でないからこそ、執拗に扇動が行われてきたのである。その虚構を剥いだあとで、セクシュアリティを模索しているのがショタなのだろう。

 では、ショタという性的物語の消費のされ方をみてみよう。或る人は、ショタは作られた男性性ではなく、真の男性性=真の少年性の模索であると言う。ショタにあるのは、少年のセクシュアリティである。ショタはそれを救い上げてくれるのである。十分に社会化されていない少年の未分化なセクシュアリティは、ときに同性へと向かう。やがて大人になるにつれ、そのようなセクシュアリティは、社会的に否定される。ショタはその否定を覆してくれる。すなわち同性に感じた友情や恋愛感情、同性への性的欲望は間違っていなかったのだと。少年時代はショタによって認められる。このようにショタは一種のセラピーとして消費されることもある。

 ところでショタはヘテロと異なる。ではホモかといえば、そうでもない。ショタの作者は「ホモ」と言われると「自分はホモではない」と半ば怒ったように答える。これはどういうことなのか。

 欲望する主体であった男性が、反転して、欲望される主体となったのがショタだが、然しこれは性的に閉じた逆転である。完璧な逆転ならば、欲望する主体であった男性が、女性によって対象化され欲望される主体となるはずだ。然しそうはならない。このような非対称性は、現実にも見うけられる。

 実際、例えば男性は、同性からの痴漢行為には恐怖を感じるが、女性からのそれにはあまり恐怖を感じないだろう。男性は女性からの性的関係を何でも受け入れる。これは否定の否定は肯定であるということに過ぎない。女性と他者として対峙するのではなく、何でも受け入れるという形で、男性は本質的に女性との関係を排除している。男は女ではなく男が恐いのである。だからショタで描かれるのは、男性は男性でも、あくまで「アニメ絵」で描かれた「かわいい少年」でなければならない。ショタの作者が「自分はホモでない」と言うのは、そういうことだ。

 ショタは定義上、「アニメ絵」で描かれなければショタではない。そのことでショタが抑圧しているのは、男性にとっての他者が男性であるということ、そのような他者性である。

だから、ショタはまず「自分探し」から始めようとする。しかし、そのような仕方では、「本当の自分」は永遠に見つからない。自己とは、自己の中に在る他者のまなざしであって、「自分探し」は、他者の中に自己を見出すこと、また、自己の中の他者を遡及することによってしかありえない。どちらにせよ、そこで必要なのは他者性なのである。

 ところで、ショタによって開発された受け身の男性性は、美少女マンガ全体にフィードバックされ、頻繁に描かれるようになってきている。例えば、うらまっく「つかもとくん」(『快楽天』一二月号、ワニマガジン社、一九九八)をみてみよう。舞台は中学か高校。「女なんてただの公衆便所だよ」と言う男子生徒が、上級生の女子生徒三人に呼び出されて、顔に放尿、アナルを無理やり犯されるなどの「オシオキ」をされる。男子はペニスを入れたがるが、「入れるばかりがセックスじゃないでしょ。見ててあげるから自分でしな」と、マスターベーションを強要され、射精する。ラストは、後日「もう一度お願いしますっ」と近づく男子生徒に女子が蹴りを入れて終わる。

 ここでは、従来とは全く逆転した男女関係が描かれている。女性が男性を犯している。しかし見逃してならないのは、このような逆転が描かれるとき、男性がそれによって傷ついてはならないということである。上の物語でも、犯された男子は、むしろ犯される喜びに目覚める。これはつまり、美少女マンガの特質が、決して誰によっても傷つけられるようなことのない、ナルシスティックな空間であるということだろう。つまりそこには他者がいない。他者を、自己とは異なる共同体に属する者と定義すれば、他者の出現には、共同体が折り重なった「社会」というものが必要である。繰り返し言うように、「アニメ絵」は社会とは切れている。よって美少女マンガに他者はいない。

 ただしここで強調すべきことは、そのような欠如ではない。美少女マンガは、「アニメ絵」で描かれているからこそ、従来の社会の現実に捕らわれず、様々な性を生み出し、描き出せる場として在るということだ。そのようなメディアは、美少女マンガの他にはないといってもよい。



 ナルシスティックであるという「アニメ絵」の規則(制度)にただ従うのではなく、明示的に捉え返そうと表現している作家もいるだろう。例えば小林少年の『臆病な野心家』(富士見出版、一九九八)はそのように読める。なかでも田中ユタカは繰り返し制度を反復している。彼の作品には、内気で不器用な少年と、その少年をやさしく受け入れてくれる少女を主人公としたものが多い。少女は決して少年を裏切ることはない。ここで描かれる少女は、少年にとって真の他者ではなく、自己の延長としての他者に過ぎず、コミュニケーションが初めから閉ざされている異者であり、少女は少年の幻想に過ぎない。然し田中ユタカはそれを十分承知の上で、あえて反復することに賭けているのであって、ここで男性中心主義的な性幻想への批判と、その代理表現である作品そのものへの批判を安易に混同させてはならない。

 例えば還元主義的に読んでしまったなら、伊集院808図7)の作品ほどつまらないものはない。物語は全く御都合主義である。道を歩いているもてない男性が、唐突に女性から誘われ、セックスをする、そのような物語ばかりだ。乏しい絵、破綻したストーリー、とってつけたようなセックス場面。コマ外にときどき、作者の独言が呟かれる。「もうすぐ二四か」「な〜んだ今のマンガなんてライトテーブル使えば誰でも描けんじゃん」等々。

 このような作品は一見、何の規制もない同人誌に多いように思われるだろう。確かに美少女マンガ家には、同人誌からの出身が多い。雑誌の編集者は、年二回のコミック・マーケットやその他の即売会イベントを廻って作家を集める。今や、美少女マンガ誌は、同人誌と同じだといってよいかもしれない。同人作品を集めたアンソロジーも山のように出版されている。だが伊集院808の単行本の最後に「お友達イラスト」が全くないことから予想するに、彼は同人誌出身ではない。何を描いてもよいという同人誌の場では、決して彼のような呟きが書き付けられることはない。

「ロリータ」(『エロラエロマ』松文館、一九九七)は、男が歩いていると、突然、少女に「私、あなたを見たときからずっと縛られたいと思っていたの」と誘われ、そのまま二人がセックスをするという、初めから物語構築を放棄している作品であるが、セックスが終わって、少女の「はあ〜すごかった」と満足げなコマがあり、その次、ラストのコマの少女の独白がこうだ。「な〜んて、実は私は不感症で、今のは全て演技だって言ったら怒る!? い〜じゃん別に、どうだってなんだって、なにがどーなるってわけでもいいじゃない。ほっといて、なぜなら私は『電気式ロリータ女型キーハ・コギャル戦車ロボ』」。伏線もなにもなく、唐突にこのように終わる。典型的な美少女マンガであれば、セックスして二人が結ばれて終わりなのだが、ここではそのような予定調和から逸している。深読みすれば、愛という名のイデオロギーに抗しているともとれる。読者は満足感を得られず、脱力して笑うしかない。また、セックスになんら意味付けがなく、エロマンガだから描いているという印象しか受けない。エロマンガなのだから、読者の快楽原則に沿うセックスを演じなければならない。つまりエロマンガが、男性の性的幻想であることが意識されている。もちろんそれは、ほとんどの作家が意識していることだ。ただ伊集院808は、そのことをあらかじめ意識した上で、逆手にとって、繰り返し戯画化しているのである。彼は知る限り四冊の単行本を出しているが、ほとんどがそのような作品である。

 また、その作品の端々――「今度、インキャパシタンツのライブいこうよ」という科白や、キャラクターの着るTシャツなどから、彼がノイズ・ミュージックに共感していることが分かる。泊倫人は、完顔阿骨打がノイズマニアであり、伊藤まさやがノイズバンドのジャケットを担当していることから、美少女マンガとノイズとの共通性、「インディペンドな活動が基本にあること」、「慣れていないとみんな同じに見え」ること、「熱狂的なマニアがいて、レアなアイテムが途方もない値段で取引きされていること」(泊、一九九七)を指摘するが、ノイズと美少女マンガの類似はそれだけではない。

 ノイズも美少女マンガも、何もないことの表現である。表現するべきことなど何もないにもかかわらず、あらゆる表現制度は、表現を強制する。表現したい事などあらかじめあるものではなく、制度によって事後的に内面化されるにすぎない。図らずもそのことを暴露したのがノイズであり、ノイズ・サンプリングという手法なのである。

 伊集院808の描くセックス場面は、美少女マンガもまた制度化されていることの徹底した暴露であり、そのマンガ全体は「表現したいことなど何もない」ことの表現に貫かれている。彼は風景のコマの欄外に、「もちろんサンプリング!」と書く。

 表現することが何もないという場所で、新たな問題が立ち始める。伊集院808や町野変丸は、そのような意味と無意味の境界にいる。美少女マンガなんてどれも屑のようにしか見えないというのは正しい。然しそれは、人はそのような屑を作り出さねばならないという、切実な屑なのである。



 町田ひらくは映画監督志望だけあって、映画的なコマ運び、つまり物語を騙ることを得意とするマンガ家である。彼は美少女マンガにおいて主流である「アニメ絵」をあえて選択していない。倉多江美に影響を受けたというその絵は、「アニメ絵」の共同性の中で、あからさまに異質である(異質なものをも許容するのが「エロ」カテゴリーの魅力でもある)。マンガは「アニメ絵」によって映画と決別することができたわけだが、然しそのような「アニメ絵」で描くことは自分にはできない、ということを彼は考えたはずだ。マンガを構造的に規定している絵という「マンガ表現」に、町田ひらくはかなり自覚的である。

 短編「ROSWELL ANGEL」(『Alice Bland』コアマガジン、一九九八)は、捕獲された宇宙人とアメリカ軍人が接触する物語である。図8の上が、町田ひらくの普段の絵柄で描かれた女性。対して下は、この作品に登場する宇宙人。この宇宙人は、典型的な「アニメ絵」で描かれている。町田ひらくは、「アニメ絵」の典型を意図して、宇宙人を「アニメ絵」で描いている。ここでは宇宙人の異質性と、自らの作品における「アニメ絵」の異質性とが重ねられている。さらに「アニメ絵」=美少女マンガを異質なものと描くことで、美少女マンガの側からすれば自身が宇宙人であるという意識が二重映しとなって表現されている。

 町田ひらくの作品にあるのは、性が暴力や死といったものと結びつくという「劇画」的な「思想」であって、事実、彼の絵は「劇画」寄りなのだが、然し彼は「劇画」の時代に回帰しているわけではない。

 サドから三流劇画に至るまで、性は一貫して反権力の温床だったと言える。然し当たり前のことだが、性によって革命や解放と手を組めた幸せな時代など、とうに過ぎ去っている。「アニメ絵」で描かれた美少女マンガは、まさにそのような現在に似合っている。

 然し「アニメ絵」は、技術という即自的なものの機械的追求によって、生々しい外部と切れたはずだ。それならばなぜ依然として、美少女マンガでセックスという、粘着性の現象が描かれなければならないのか。かわいいイラストだけでもよいはずだ。だが私たちは「アニメ絵」においても性的物語を求める。しかも過剰に。例えば以前記述したように、それを「アニメ絵」が自己言及的なオブジェと化すことによって、その内部が空白になったことへの反動として説明することもできる。また次のような解釈もできるかもしれない。

「アニメ絵」が禁止しているものは何だろう。そこで倦厭されるのは、線を無闇に重ねることではないだろうか。「アニメ絵」において評価されるのは線のシンプルさ、少ない線分でいかに微妙なニュアンスを出すかということだ。例えばおおしまひろゆきの絵(図9)は、その完成形に見える。ここでは全く線が重ねられていない。一本一本の線が重い。線を束ねることでニュアンスを出す「劇画」では、そのうちの一本が一ミリずれようと、どうということはないが、「アニメ絵」においては、一本の線、線の一本一本が動かしがたいものとして在る。「アニメ絵」は線の集まりを拒否したゆえに、一本の線の重大さを見出した。乱暴に言えば、「劇画」は集団的であるが、「アニメ絵」は個的である。集団において、人と人との関係は、絶対的な前提である。然し「アニメ絵」は、集団性を拒否することによって、人々の関係の不可能性を改めて見出した。そこで人間同士をつなぐものとして、新たにセックスが問題として浮上する。美少女マンガにおけるセックスは、そのようなものだ。

 町田ひらくが衝撃なのは、人間同士が根本では分かり合えないことを執拗に描いているからだ。彼の物語のほとんどは、男が女を犯し、そうして犯した男は必ず死ぬ。彼は徹底して反ヒューマニストである。もちろん死や暴力を描いているからではない。人が社会的に生きる限り、暴力は不可避に生ずる。ヒューマニストはそれをないものと見做し、決して見ようとはしない。町田ひらくは、人間がどうしても暴力を犯すこと、性的なものから逃れられないことを知っている。放っておけば自らの子供や妹でさえ、誰でも強姦できるのが人間である。例えば舞登志郎『妹の匂い』(オークラ出版、一九九八)は、妹に偏執的な愛情を抱く兄を描いて近年の収穫だ。妹の下着のしみを抽出し、リトマス紙で検査し、試験管に保存する兄。ここで兄は妹に対して、そうせざるを得ないのである。理性は「肉体」として存在せざるを得ない。「肉体」は性的に自己を呼びかける社会構造が具体化したものである。それは「身体」などといった抽象化されたものでなく、人が生きてきた経験の蓄積でもある。このような理性と「肉体」のせめぎあい(例えば鎌やん『幼い玩具』オークラ出版、一九九七の相剋を見よ)を踏まえなければ、町田ひらくの「僕は夢は売るけど希望は絶対に売りたくない」(『green-out』自作解説より、一水社、一九九八)という言葉が、ただのモラリストのそれと同じ響きになってしまう。

 主人公が幼い少女と青年であること。町田ひらくの絵が「劇画」寄りなのは、少女と青年を残酷に描き分けるためだ。もちろん「アニメ絵」でも区別して描くことはできる。然しそこに残酷さはない。現実において、少女と青年のあいだには、社会のつくった頑とした壁がある。「アニメ絵」で少女と青年を描いたとしても、二人を断絶する壁までは描けない。「アニメ絵」はもはやそのような関係を描くことはできない。町田ひらくは「劇画」よりの絵を選ぶことによって、決して結ばれない二人を描く。ここで石井隆を思い出すことができるだろう。然し名美と村木は成人男女であって、そこには希望がある。町田ひらくの世界では、成人男性と幼い幼女が主人公であり、それは始めから閉ざされた関係である。町田ひらくは「劇画」がもっていた夢を打ち砕く。それはいったん「アニメ絵」という同質性を通過しなければ得られない絶望である。

 TAGROの絵は、町田ひらくの絵とは全く正反対であり、その「アニメ絵」はまるで粘土細工を思わせる(図10)。

 短編「LIVEWELL」(『マキシ』コアマガジン、一九九九)は、精神病を患う女性と、彼女に寄り添う青年を描いている。精神病とは、端的に言えば、相手の言葉を全く信じられなくなった状態だ。私たちは、自らの言葉の意味が相手にきちんと伝達されていると信じることで、日常生活を成り立たせている。そのような言葉の意味の規則が全く取り払われてしまった状態が精神病である。彼女は、男性の言葉――「私はあなたが好きだ」という言葉さえ疑わざるを得ない。「LIVEWELL」が描くのは、そのようなズレである。精神病者でなくとも、私たちは、そのような「ズレ」に妥協しつつ生きている。

 女性は男性に首を絞めてもらうことで、ズレを一致させる。これが「劇画」で描かれていたとすれば、このような場面は、全く使い古されたものだ。ここで重要なのは、今まで「劇画」で描かれてきたような内面が「アニメ絵」で描かれているということである。「アニメ絵」は観念にまみれていない。透明であって、根底がない。従って価値や理念といった社会的なものに加担しない。

 TAGROの描く瞳は、一本の線という最低限のものだ。そこに内面を表現することは難しい。だが「LIVEWELL」では、新たな内面の強度が獲得されている。「アニメ絵」の瞳で「社会」を生きること。TAGROが描くのはそのような「現在」である。





(註一)ここで「エロマンガ」とはあくまで男性読者向けのものに限定する。また、戦後カストリ雑誌の挿絵類や、小島功や杉浦幸雄らの艶笑マンガはその範疇外とする。

(註二)劇画という呼称は、みずからの「作品」を手塚的な児童マンガと区別するため、辰巳ヨシヒロが一九五七年に名づけた名であり、元来「絵柄」を指し示すものではない。然し以降、括弧付きの「劇画」は、劇画の「絵柄」を指示するものとする。

(註三)表現論が「外部」を排除したとしても、それでもマンガが様々な「ノイズ」に支えられているのは事実である。マンガを読むということは、むしろ「ノイズ」を読むことと言ってもよい。

(註四)これは余談なのかもしれないが、現在のコミックマーケットは、ベンサムの一望監視施設に、いくつかの点で酷似している。中心としての権力が空欄であること。規律が官僚制的に年々厳しくなってきていること。そしてその禁止事項を参加者が当然のこととして自ら受け入れ、お互いに遵守しようとしていること。そのことで権力が自動化していること。イデオロギーが排除されていること、等々。

(註五)私見では、村上隆がファインアートとして提示しているのは、このような「アニメ絵」の空白性ではないか。

(註六)一九九七年は、『SPA!』が巻頭でショタ特集をやるほどの人気だった。もちろん『SPA!』の特集というのは『トゥナイト2』並みに怪しいものなのだが。

引用、参考文献

石子順造・梶井純菊地浅次郎権藤晋『現代漫画論集』青林堂、一九六九。
糸山敏和「美少女コミック研究序論」『ポップ・カルチャー・クリティーク 0』青弓社、一九九七
ウィトゲンシュタイン、L『全集十 講義集』大修館書店、一九七七
斎藤環『文脈病』青土社、一九九八
坂口安吾『坂口安吾全集』一五巻、ちくま文庫、一九九一
塩山芳明『現代エロ漫画』一水社、一九九八
泊倫人「美少女エッチ漫画の基礎知識」『コミック・ゴン』第一号、ミリオン出版、一九九七
富沢雅彦編『美少女症候群』ふゅーじょんぷろだくと、一九八五
夏目房之介『手塚治虫の冒険』小学館文庫、一九九八
深沢七郎『深沢七郎の滅亡対談』ちくま文庫、一九九三
村上隆「絶対停止マンガ」『木野評論』臨時増刊号、青幻社、一九九八
渡辺由美子「ショタの研究」岡田斗司夫編『国際おたく大学』光文社、一九九八
『SEXYコミック大全』KKベストセラーズ、一九九八
『このショタがすごい!』少年療法試論、一九九八


引用図版

(図一)榊まさる「淫夢」『漫画エロトピア』KKベストセラーズ、発表年不詳.(山田裕二増子真二『エロマンガ・マニアックス』太田出版、一九九八の復刻による)

(図二)さいとうつかさ「バレンタインKiss」『カラフル萬福星』四号、ビブロス、一九九九

(図三)右=魔笛下有介「野良神様」『シベール』第三号、一九七九。 左=野口正之「ムチムチしてェ〜!!」『漫画大快楽』五月増刊、檸檬社 一九八一(左右とも『COMIC BOX』十号、ふゅーじょんぷろだくと、一九八四の採録による)

(図四)きょん「ザ・我慢(後編)」富沢雅彦編『美少女症候群』ふゅーじょんぷろだくと、一九八五

(図五)上から、 はるちゃん「おまけのきゃらめる」『COMIC 妖精日記』第六号、心文社、一九九八 1ROO「欲情変体乳子(後編)」『コミック・フラミンゴ』八月号、三和出版、一九九八

(図六)高雄右京『REIN』コアマガジン、一九九八

(図七)伊集院808「ロリータ」『エロラエロマ』松文館、一九九七

(図八)左…町田ひらく「アリス解体新書」『アリスの城』コアマガジン、一九九六 右…――――『Alice Brand』コアマガジン、一九九八

(図九)おおしまひろゆき「Signal Girls」『カラフル萬福星』三号、ビブロス、一九九九

(図十)tagro「LIVEWELL」『マキシ』コアマガジン、一九九九



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